エレイソン・コメンツ第681回(2020年8月1日)
1, 2020 :
クリュソストモスは魂が救われるよう望むと述べた 「地獄の床は司教たちの頭蓋骨で覆われる」
アルベルト・ドレクスル神父は1970年代に自身が聞いた神の御言葉 ( “the Messages” ) を著書「信仰は服従より偉大」に収録しました.私たちはその御言葉が2020年にカトリック教(公教)信徒が置かれた状況にいかに的確に当てはまるかを先週のエレイソン・コメンツ(7月18日付け)で確認しました.今週は教会における教皇と聖職者,すなわち司教たちの結びつきについて神の御言葉がどういう見方をしたか考えてみましょう.御言葉は第二バチカン公会議後に羊(司祭・修道士等)たちを事実上見捨てた聖職者たち、とりわけ神から与えられた自らの責任を人造の司教会議に引き渡してしまった司教たちにきわめて厳しい見方をしています(この点については下記の1974年7月5日の項をご参照ください.この2年後にルフェーブル大司教は「憎しみを受け愚弄されて」います。)
(以下,「信仰は服従より偉大」から引用の神の御言葉)
1971年12月3日.
だが,私の心に最大の苦痛を与えたのは信徒の世話をすべき者たちである.その者たちとは口をつぐみ,無関心を装い,臆病になってしまった司教たちのことである.ほんの一握りでなく,多数の司教たちは人々を恐れるあまり神への恐れから遠ざかっている.狼たちが羊の群れに踏み込み,教会にこれほどひどい荒廃と破壊をもたらすことができたのは,まさしくここに起因する.事実,そのような司教たちは私の教会の基盤を打ちこわしてしまい, そのため数百万の不死の信徒たちが 迷子になっている.そうした背徳の牧者や熱意を欠いた司教たちは私の最終審判(=最期の審判)で信徒たちに釈明をしなければならない! 私はかつてエルサレム,その都の人々,彼らの聖職者たち,とくに高位聖職者たちを見て涙を流した.だが,彼らの犯した罪は今日の教会にいる者たちが犯した罪ほど大きくない.いま教会にいる者たちは指導者ではなく誘惑者に,牧者でなく傭兵に,助言者でなく裏切り者になっている.だが,固い決意と愛をもってペトロの後継者(=ローマ教皇)に寄り添っている真の牧者,気配りをしている司教たちがいるのも事実だ.
1972年8月4日.
私の子パウロは ( . . . ) 自らの受け持つ 信徒たち(= ” flocks” 「子羊の群れ」),自らの召命,そして職務を放棄した司祭たち(=羊たち)についてのニュース を大きな悲しみをもって受け止めながらも,彼らに本来の役割を果たすよう求める.だが,職務がら自らの長,指導者,信徒の聖父(教皇)に明確かつ忠実に仕え,その指示を尊重せざるをえない多くの牧者(司教)たちのことを大いに嘆いている.そうした司教たちは安楽な生活を送り,その怠惰,臆病ゆえに教区で気配りすることも,宗規および信仰護持のため徹底的に信徒たちの世話をすることも怠っている.
1972年12月1日.
多くの信徒たちは良い牧者を切望している.確かに司教たちが呼び出され牧者として任命されている.だが,彼らは忠誠への道を見捨て,傭兵や狼に成り下がっている.彼らに委ねられた信徒たちは最後の審判で彼らに不利な証言をするだろう.
1974年7月5日
悲嘆にくれた信徒たちは天国に救いを求めて叫ぶ.その間,頼まれてもいない者が教会内や集会で権力を握る.こうしたことすべてはそういう連中を阻止し,彼等との間に境界線を引かない司教たちがいるために起きている.
1974年11月1日.
考えて見よ.大きな混乱が私の信徒と真の教会を襲っている.偽りの発言や異説に満ちた書物が牧者と目される司教たちによって受け入れられ,その一方で真実を語る書物は教会の代表者たちによって拒まれている.そのため,混乱がさらに大きくなっている.
1975年2月7日.
任命を受けた牧者や守護者の一部は信仰を捨て異説に走っている.ああ,信仰を持ち,祈り続ける人々がもはや保護を得られなくなっているという理由で,牧者たちのすべてが自分たちの責任は何なのか,その責任がいかに重くなっているかを理解しようとしないのだろうか.
1976年7月2日.
もはや信仰を守ろうとせず,結果として信心深い人々,若者,子供らを守ろうとしない守護者たちが彼らの魂を殺すことにならないだろうか.だが,信仰破壊に反対して立ち上がる者は迫害され,彼らの深刻かつ深い悲しみは憎(にく)しみと嘲笑(ちょうしょう)に晒(さら)されている.
キリエ・エレイソン(主よ憐れみ給え)
リチャード・ウィリアムソン司教
(訳注)
John Chrysostom ヨハネス・クリュソストモス(347-407)は東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスのキリスト教会で398年から404年まで主教を務めた.死後聖人に列せられた.