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非常食

エレイソン・コメンツ 第484回 (2016年10月22日)

カトリック教の諸施設がばらばらに崩れたときは,

司祭たちは家庭を助け,その打撃に耐えるようにしなければならない.

軍事に関して言えば,普通,将軍も兵士も進行中の戦いよりの前の戦いのことを念頭に置きます.第一次世界大戦前に塹壕(ざんごう)戦を想像した者が果たしていたでしょうか?だが,第二次世界大戦が始まるまでには,その間に発達した戦車のため塹壕など旧式になっていました.宗教に関しても同様です.21世紀はもはや20世紀ではありません.抵抗派カトリック教徒は2012年いらい愚かにも前世紀に起きた聖ピオ十世会( “the Society of St Pius X” )(以下,”SSPX” と記す.)の設立,拡大に似たことがやがておきるだろうと期待してきました.たとえば,今日の賞賛すべき二人の抵抗運動家たちから二種類の嘆きが聞こえてきます.一つは一般的なもので,もう一つは特別なものです.恐らく,どちらも賢明な嘆きとは言えません.

一般的な嘆(なげ)きとは,「抵抗運動」が前進するどころか,ばらばらに崩(くず)れようとしていることについてです.エレイソン・コメンツでは抵抗運動にカッコをつけることが多いのですが,それは SSPX の公会議派化に対するカトリック教の抵抗がまだ組織とは程遠い存在であり,カトリック信仰を守るという確かな目的を持っているものの,いまだ漠然とした運動であり,目的を達成するための機構をほとんど持っていないことを示したいからです.だが,抵抗運動家たちは元気を失ってはいけません.なぜなら,提案するのが人間であるのに対し,それを取り扱うのは神だからです.したがって,人間の失敗と見えるものは全能の神の眼から見れば失敗でないかもしれないからです. (訳注)

そのようなわけで,1970年代にルフェーブル大司教は6名のカトリック教司教を結集し,当時教会を破壊しようとしていた公会議派たちの進路にバリケードを築こうと提案しました.だが,神は彼の提案をその趣旨とは異なる取り扱いをされました.大司教はその目的達成に失敗したように見えるかもしれませんが,達成を試みることで,将来のより良い時代のための教会教理,ミサ聖祭,司祭職という宝物を守る世界的な宝物殿を築きあげることに成功したといえるでしょう.同じように,現在,抵抗運動家たちは危機に瀕する SSPX の代替物(だいたい ぶつ)を作ろうと提案しています.彼らの弱み(少なくともこれまでのところ)は,そのような大がかりな代替物が全能の神がお考えの計画や解決には含まれていないように思えることです.だが,そのような代替物を作ろうと試みることにより,彼らはカトリック信仰の延命を確かなものにしています(少なくとも今のところは).そして,それは間違いなく神の望まれる解決なのです.

特別な嘆きとは,もし「抵抗運動」が自前の神学校を持っていれば,SSPX の親たちの多くが子供たちを「抵抗運動」の後継者に育てられるだろうに,ということについてです.親たちは今それができずにいます.というのは彼らの子供たちは SSPX の神学校から直に追い出されることになるはずなのに,代わりになるまともな神学校が見当たらないからです.だが,再度いいますが,私たちは20世紀でなく,21世紀において信仰擁護のための戦いをしているのです.1980年代を振り返ると,当時はまだ志を同じにするカトリック教の親,先生,司教たちが三者間の枠組みを保ち,子供たちはその枠内でまっとうに育っていました.だが,今日はどうでしょうか? 今日,深刻な苦境におかれた SSPX の男児神学校のことを耳にします.学校の壁の内側で例の自然に反する罪が犯され.復讐(ふくしゅう)のため天国に向かって叫ぶという事態が起きているというのです.だが,どのような壁(かべ)があれば,男性の大人たちの間に見られるその罪の賛美や新たな悪習を咎(とが)めるために考え出された新語 ―― 「同性愛嫌悪(どうせい あい けんお)」 “homophobia” について若者たちが知ることなく過ごすことができるでしょうか? 若者たちが大人(おとな)たちの真似(まね)をしないという時代が過去にあったでしょうか? 事実,インターネットが考案され,それへのアクセスが容易になって以来,男児神学校をうまく運営した者がいるでしょうか? カトリック教の諸施設の存続はまだ可能なのでしょうか? (訳注)

今日の宗教戦争において,不可欠なものは非常食(ひじょう しょく),すなわち兵士たちの生き残りのための必需品,ここでは信仰の維持です.この戦いは家庭で勝たなければ,負けてしまいます.神は親たちに子供を躾(しつ)ける自然の力を与えます.そして、その力は子供たちをダメにするいかなる組織の力に比べても,例えていえば,5対2くらいの差で優ものです.ただし,親たちがその力を 掌握(しょうあく)し ていればの話です.小さな舵(かじ)でも大きな船を操縦(そうじゅう)できます.だが,そう舵手(だしゅ)が舵を手放したら操縦不能です.もし,親たちが子供たちを手放してしまうなら,彼らが地獄に向かっても世間を非難することなどできません.そして,もし親たちが SSPX の神学校に子供たちを天国でなく世間に向くように躾けてほしいと願ったとすれば、そこに SSPX が失墜(しっつい)してしまった重要な理由があるのではないでしょうか?

キリエ・エレイソン.

リチャード・ウィリアムソン司教

訳注を追補いたします.