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真理が先

エレイソン・コメンツ 第346回 (2014年3月1日)

最近(さいきん)のエレイソン・コメンツの議論(ぎろん)には多くの異論(おおくの いろん)があるに違(ちが)いありません( “There must be many objections to the argument of recent issues of these “Comments” that, …” ).(その議論とはすなわち,)神の説く(=神聖な)真理(かみの とく しんせいな しんり)は人間教師たち(にんげん きょうし たち)( “human teachers” )に先立つ(さきだつ)ものであるから( “… divine truth being prior to human teachers, …” ),私たちは教皇の無謬性(きょうこうの むびゅうせい)についてさほど深(ふか)く心を悩ます(こころを なやます)ことはないのだ( “… then the fallibility of Popes need not concern us all that much…” ).何故(なぜ)なら真の信仰(まことの しんこう)は教皇(きょうこう)たちの後ろ盾(うしろだて)であり,彼等を(かれら)超越(ちょうえつ)し上位(じょうい)に位置(いち)するものであるから( “…because the true Faith is behind, beyond and above them.” ),というものです.だが,ここに一つ(ひとつ)の古典的な異論(こてんてきな いろん)があります.すなわち( “But here is a classic objection: …” ),カトリック教の真理(しんり) そのもの は人間教師(にんげん きょうし)の上位(じょうい)にあるだろうが( “… the Truth in itself may be above them- ” ), 私たち 人間には,それ(=真理)はただ(同じ人間である)彼ら(=人間教師たる聖職者たち)を通(とお)してのみ届(とど)く――(つまり,)「信仰は耳から入る」(しんこうは みみから はいる)( = 「信仰は宣教による(しんこうは せんきょうに よる)」)(新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡(しょかん):第10章17節)( “-faith us by hearing” (Rom.

聖書の中にも答(こた)えがあります ( “Also in Scripture lies the answer.” ). 聖パウロは信仰を説(と)いた会衆(かいしゅう)たちに向け「私たち自身であるにせよ,天からの天使(てんからの てんし)であるにせよ,私たちがあなたたちに伝(つた)えたのとは異なる福音(ことなる ふくいん)を告げる者(つげる もの)にはのろいあれ.」 ( “Though we, or an angel from heaven, preach a gospel to you besides that which we have preached to you, let him be anathema.” ) と書(か)いています.そして,この点(てん)はとても大事(だいじ)なことなので,聖パウロはすぐそれを繰り返(くりかえ)します( “And the point is so important that St Paul immediately repeats it: …” ).「私は前に言ったことを今また繰り返す.あなたたちが受けたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ.」 (使徒聖パウロのガラツィア人への書簡(しょかん)・第1章8-9節) (訳注・以下,「ガラツィア書簡」と記す.) ( ” “…As we said before, so now I say again: If anyone preach to you a gospel, besides that which you have received, let him be anathema” (Gal.I, 8-9) ” ).

だが,ガラツィア人は次のように異を唱えた(いを となえた)かもしれません( “But, a Galatian might have objected, …” ).私たちはなぜ,あなたが二度目(にどめ)にガラツィアを訪(おとず)れて説(と)くまったく別の真実(べつの しんじつ)でなく,最初(さいしょ)に訪れて説く真実を信(しん)じなければならないのでしょうか? ( “… why should we believe your gospel on your first visit to Galatia and not an eventually different one on your second ? ” ) 聖パウロは直(ただ)ちに最初の理由(さいしょの りゆう)を与(あた)えます ( “St.

このようにして,聖パウロは最初の訪問(ほうもん)で説(と)いた真理(しんり)およびその真理とガラツィア人たちが自らの魂(みずからの たましい)を救(すく)いたいと願(ねが)うなら,自(みずか)ら見分(みわ)ける ことができるだけでなく,また そう せざるを得ない (えない)別の真理(べつの しんり)との間(あいだ)の矛盾(むじゅん)を神が自分(じぶん)に教(おし)えてくださり,ガラツィア人たちのために確(たし)かめてくださったことを証明(しょうめい)します( “Thus Paul proves that God both taught him, and confirmed for the Galatians, the gospel of that first visit, and the contradiction between it and any different gospel the Galatians would be not only able but also obliged to discern for themselves, if they wished to save their souls.” ).そして,たとえ別の真理を説く者が天使あるいはパウロ自身(じしん) ――もしくは教皇!(きょうこう)――であるにしても (第1章8節) ガラツィア人たちはパウロの説く最初の真理(ぱうろの とく さいしょの しんり)に固執(こしつ)する絶対的な義務(ぜったいてきな ぎむ)があります( “And no matter if (I,8) the preacher of the different gospel were an angel or Paul himself – or a Pope ! – the Galatians would still have the absolute duty to stay with Paul’s first gospel.” ).ガラツィア人たちは 彼らの前(まえ)に示(しめ)された 真実(しんじつ) (第3章1節) を認(みと)めて受け入れた(うけいれた)のです (第3章3節) ( “The truth that had been set before them (III,1) the Galatians had recognized and accepted it (III, 3), …” ).それは,あたかも私たちが2+2が4であるのを認めるようなもので,その真実はそれに矛盾(むじゅん)する真実を説くいかなる教師(きょうし)よりも優位(ゆうい)に立(た)ちます( “…just as one recognizes that 2 and 2 are 4, so it would have priority over any teacher eventually contradicting it, …” ).彼がいかなる権限(けんげん)を持(も)っているように見(み)える場合(ばあい)もそうです (第1章9節) ( “…whatever authority to teach he might appear to have (I,9).” ). (訳注後記4…ガラツィア書簡全章)

そういうわけで,ルフェーブル大司教(るふぇーぶる だいしきょう)( “Archbishop Lefebvre” )は生前(せいぜん),聖パウロから第二バチカン公会議(だいに ばちかん こうかいぎ)までの19世紀(じゅうきゅう せいき)のあいだ,教会(きょうかい)は神が示し(かみが しめし),神が何度も確かめられた(かみが なんども たしかめられた)まさしく同じ真理( “おなじ しんり” )を説(と)いてきたと,口癖(くちぐせ)のように言(い)っておられました( “Thus Archbishop Lefebvre used to say that for the 19 centuries between St Paul and Vatican II the Church had preached exactly the same gospel, coming from God and ever and again confirmed by him.” ).神により啓示(けいじ)された,その真理とは,聖職者(せいしょくしゃ)たちが伝(つた)えてきた,ヨハネ黙示録(よはね もくしろく)( “Revelation” )であり( “That gospel is, as revealed by God, Revelation; as handed down by churchmen, Tradition; …” ),権威(けんい)をもって教会とその通常(つうじょう)および特別教導権(とくべつ きょうどうけん)が教(おし)えてきた伝統(でんとう)です( “…That gospel is, as revealed by God, Revelation; as handed down by churchmen, Tradition; as taught with authority by the Church, its Ordinary and Extraordinary Magisterium.” ).その真理(しんり)と第二バチカン公会議との矛盾(むじゅん)は明白(めいはく)です( “Between that gospel and Vatican II the contradiction is obvious, …” ).したがって,私たちは自らの魂(みずからの たましい)を救(すく)いたいと願(ねが)うなら,教会の見かけだけの権威者(きょうかいの みかけだけの けんいしゃ)がなんと言おうと,伝統(でんとう)を受け入れ(うけいれ),信(しん)じなければなりません ( “…so we must accept and believe Tradition, if we wish to save our souls, whatever the apparent authorities of the Church may say to the contrary.” ).神よ,私たちをお救(すく)いください( “So help us God.” ).ルフェーブル大司教ご自身(じしん)の聖ピオ十世会がどうして第二バチカン公会議当局者(とうきょくしゃ)たちとの和解(わかい)を正式(せいしき)に求(もと)めることができるのでしょうか?( “How then can the Archbishop’s own Society of St Pius X be officially seeking reconciliation with the authorities of Vatican II ? ” )

キリエ・エレイソン.

新約聖書・使徒聖パウロのガラツィア人への手紙:第1章8-9節 ( “Galatians I, 8-9” ) は権威に対する(けんいに たいする)真理の優位(しんりの ゆうい),すなわち,今日の(こんにちの)ローマ教皇庁の権威(ろーま きょうこう ちょうの けんい)に対(たい)するカトリック教伝統の優位(かとりっく でんとうの ゆうい)を証明(しょうめい)する古典的な教科書(こてんてきな きょうかしょ)です ( “Galatians I, 8-9 is a classic text to prove the priority of truth over authority, i.e.

リチャード・ウィリアムソン司教

(訳注1)

新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡第10章17節

『 信仰は宣教により,宣教は*¹キリストのみことばによる. 』

(注釈)「キリストのみことば」は,キリストの命令(めいれい)のこと.

(訳注2)

新約聖書・ルカによる聖福音書:第22章31-32節

『(イエズス・キリストのみことば) シモン(=ペトロ), シモン, サタン(=悪魔)はあなたたちを麦(むぎ)のようにふるいにかけることができたが,*²私はあなたのために信仰(しんこう)がなくならぬようにと祈った.あなたは心(こころ)を取(と)りもどし,兄弟(きょうだい)たちの心を固めよ (こころを かためよ).』

(注釈)*² カトリック神学は,ペトロの後継者(こうけいしゃ)の教導権と不可謬性(きょうどうけんと ふかびゅうせい)を証明(しょうめい)するために,このところも挙げる(あげる).

(訳注3)

新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第16章13節

《 主イエズス・キリストの聖福音 》

『(13)… その方(かた)つまり真理の霊(しんりの れい)の来(く)るとき,霊はあなたたちをあらゆる真理(しんり)に導(みちび)かれるであろう .それは,自(みずか)ら語るのではなく,聞いたことを語って未来のことを示されるであろう.(14)また霊は私に光栄を与えられる.なぜなら,霊は私のものを受け,それをあなたたちに知らせるからである.(15)父のものはすべて私のものである.だから私は,霊が私のものを受けて,それをあなたたちに知らせると言ったのである.』

(訳注4)

新約聖書・使徒聖パウロのガラツィア人への書簡:全章

訳注を追加掲載いたします.