解説付き版
エレイソン・コメンツ 第425回 (2015年9月5日)
私たちの嘘の世界は
往々にして
「黒は白だ」と言います.
(わたくし たちの うその せかいは
おうおう にして
「くろは しろだ」と いいます.)
神を尺度とするなら,
公教徒達(=カトリック教徒達」)は
正しく測ります.
(かみを しゃくど と する なら,
こう きょうと たち〈=かとりっく きょうと たち〉は
ただしく はかり ます.)
公教会(=カトリック教会)( “the Catholic Church” )は「人種差別」“racism” に就いて如何考えるでしょうか? (こうきょうかい〈かとりっくきょうかい〉は「じんしゅ さべつ」に ついて どう かんがえる でしょうか?) 「反ユダヤ主義」 “anti-semitism” (訳注後記0・1 ) に就いては? (「はん ゆだや しゅぎ」に ついては?) 「(女)性差別」 “sexism” に 就いては? (「(じょ)せい さべつ」に ついては?) 或(い)は「同性愛嫌悪」 “homophobia” に就いては? (あるい は 「どうせい あい けんお」に ついて は?) ( “What does the Catholic Church think of “racism”? Or of “anti-semitism”? Or of “sexism”? Or of “homophobia”? ” ) 他にも多々在ります (ほか にも たた あり ます.) ( “And so on and so on.” ).誰もが他の誰に対しても親切だと想定されて居るリベラルな世界で (だれ もが ほか の だれ に たいし ても しんせつ だ と そうてい されて いる りべらる な せかい で) ( “In a liberal world where everybody is supposed to be nice to everybody, …” ),私達全てが憎むべき様な新しい階級の人々に就いて「差別語禁止」が定期的に出て来るのは驚くべき事では無いでしょうか? (わたくし たち すべて が にくむ べき ような あたらしい かいきゅう の ひとびと に ついて「さべつ ご きんし」が ていき てき に でて くる のは おどろく べき こと では ない でしょうか?) ( “… is it not surprising how “political correctness” seems to come up regularly with a new class of people for all of us to hate? ” ) 公教会(カトリック教会)は,(其の創立者で在られる)神授の(=神聖な)真の教師(=神の御独り子主イエズス・キリスト)( “its divine Master” )の聖教(みおしえ)に従い私達は隣人を愛し,誰も憎むべきで無いと説いて居ます (こう きょうかい〈かとりっく きょうかい〉は,〈その そうりつしゃ で あられる〉しんじゅ の〈=しんせい な〉まこと の きょうし〈=かみ の おん ひとりご しゅ いえずす・きりすと〉の みおしえ に したがい わたくし たち は りんじん を あいし,だれ も にくむ べき で ない と といて います) (訳注後記0・2 ) .だが教会は,私達に仲間の全てを無差別に愛せとは説いて居ません (だが きょうかい は,わたくし たち に なかま の すべて を むさべつ に あいせ と は といて いません) ( “… but it does not say we should love all our fellow-men indiscriminately.” ).偉大な公教会(カトリック教会)の神学者( “a great Catholic theologian” )が私達の神や人に対する愛に何の様な順序を付けたか振り返って見ましょう (いだいな こうきょうかい の しんがくしゃ が わたくし たち の かみ や ひと に たいする あい に どのような じゅんじょ を つけたか ふりかえって みましょう) ( “Let us see how a great Catholic theologian puts order into our love of God and man.” ).以下に紹介為るのは聖トマス・アクィナス( “St Thomas Aquinas” )の「神学大全」( “Summa Theologiae” )に含まれる十三か条の骨子,第二部第二巻,第二十六問(題)(=問26) ( “2a 2ae, Question 26” )です (いかに しょうかい する のは せい とます・あくぃなす の「しんがく たいぜん」に ふくまれる じゅうさん かじょう の こっし,だい に ぶ だい に かん,だい にじゅう ろく もん〈だい〉〈=とい にじゅう ろく〉 です) :– ( “Here are the bare bones of the 13 Articles of St Thomas Aquinas’ Summa Theologiae, 2a 2ae, Question 26:— ” )
(訳注後記0・1) 「反ユダヤ主義」“anti-semitism” )
(訳注後記0・2 ) ① (i) 「公教会(カトリック教会)」の創立者すなわち「神授の真の教師」=「キリスト」「メシア(=メサイア)」.(ii) 「キリスト・メシア」の意味=「救世主」.「イエズス・キリスト」とは,即ち「救世主イエズス」の事である.「イエズス」の御名については,後述の「訳注の続き」をご参照下さい. ②「公教会の教え」=「神(天主)の十戒」
1 愛徳 “Charity” には一つの真正の順序が在る (あいとく には ひとつの しんせい の じゅんじょ が ある) (訳注後記 1・1「神の十戒」を参照) .何故なら,其れは超自然的至福に於ける友情であり (なぜなら,それは ちょう しぜん てき しふく に おける ゆうじょう で あり) ,其の至福は神を出発点とする物(為る物)だからです (その しふく は かみを しゅっぱつ てん と する もの だから です) ( “1 Charity does have an order, because it is a friendship in supernatural bliss, and that bliss has its starting-point in God, …” ).貴方が出発点から物事を辿る場合 (あなたが しゅっぱつ てん から ものごと を たどる ばあい) ,何時でも順番を付けるでしょう (いつでも じゅんばん を つける でしょう) ( “… and wherever you have things following from a starting-point, you have an order.” ).(公教徒〈=カトリック教徒〉が重要な問題となる(為る)と如何に直ちに神に委ねるかに注目して下さい.リベラル派(=自由主義派)は自分達の「親切さ」“niceness” の出発点に就いて,先ず何に委ねるのでしょうか? ナチスに対する憎悪でしょうか? 真面目な問いです…) 〈こうきょうと〈=かとりっく きょうと〉が じゅうよう な もんだい と なると いかに ただちに かみに ゆだねるか に ちゅうもく して ください.りべらるは〈じゆう しゅぎ は〉 は じぶん たちの「しんせつさ」の しゅっぱつ てん に ついて,まず なに に ゆだねる ので しょうか? なちす に たいする ぞうお でしょうか? まじめな とい です…〉 ( “… (Notice how the Catholic immediately refers a major question to God.
2 愛徳に於いては隣人 “neighbour” よりも勝って神を愛さなければ為らない (あいとく に おいては りんじん よりも まさって かみを あいさなければ ならない) ( “2 Charity must love God above neighbour, …” ) (訳注後記 2・1「隣人とは誰か?」) .何故なら,愛徳は至福に於ける友情( “charity is a friendship in bliss” )で有り (なぜなら,あいとく は しふくに おける ゆうじょう であり) ,私自身や私の隣人の為のあらゆる至福は神を源泉として居るからです (わたくし じしん や わたくし の りんじん の ため の あらゆる しふく は かみ を げんせん と している から です) ( “… because charity is a friendship in bliss, and all bliss for myself or my neighbour has its source in God. ” ) (訳注後記2・2「神の十戒・第一項」を参照) .(リベラル派は自らの幸福の源泉を何処に置いて居るのでしょうか? 自己達成感でしょうか? 其れとも自分達の仲間でしょうか? 此れ等は,幸福の形態としては相対的に貧弱な物です.) 〈りべらるは は みずから の こうふく の げんせん を どこ に おいて いる ので しょう か? じこ たっせい かん でしょうか? それとも じぶん たち の なかま でしょうか? これら は,こうふく の けいたい と しては そうたい てき に ひんじゃく な もの です.〉 ( ” (Where do liberals place the source of their happiness? In self-fulfilment? In their fellow-men? These are relatively poor forms of happiness.) ” )
(訳注後記 2・1 )「隣人とは誰か?」→福音書のキリストによる「善きサマリア人」のたとえ話を参照.
3 神は自己以上に愛されなければ為らない (かみ は じこ いじょう に あいされ なければ ならない) ( “3 God must be loved above self, …” ).何故なら,あらゆる(無傷の)生き物は其其(其々)の遣り方で (なぜなら,あらゆる〈む きず の〉いきもの は それぞれ の やりかた で) ,自分達自身の善より共通の善を自然に愛すからです (じぶん たち じしん の ぜん より きょうつう の ぜんを しぜん に あいす から です) ( “… because all (unspoiled) creatures, each in their way, naturally love the common good above their particular good, …” ).神はあらゆる物の中で (かみ は あらゆる もの の なか で) ,自然的且つ超自然的な共通の善です (しぜん てき かつ ちょう しぜん てき な きょうつう の ぜん です) ( “… and God is the natural and supernatural common good of all.” ).
4 霊的 自己(=自己の霊魂)( ” Spiritual self” )は霊的隣人(=隣人の霊魂《=隣人の心・気持ち》)( “spiritual neighbour” )より愛されなければならない ( れいてき じこ〈=じこ の れいこん《=じこ の こころ・きもち》〉は れいてき りんじん 〈=りんじん の れいこん《=りんじん の こころ・きもち》〉より あいされ なければ ならない) ( “4 Spiritual self must be loved above spiritual neighbour, …” ) (訳注後記4・1 , 4・2) .何故なら,私は隣人より私自身に近い存在だからです (なぜなら,わたくしは りんじん より わたくし じしん に ちかい そんざい だから です) ( “… because I am closer to me than I am to my neighbour …” ).従って,若し私が「霊的に」私自身を愛さないなら(=私自身の霊魂《=私自身の心・気持ち》に対して愛徳を持てないなら),私は隣人を愛せそうもありません〈=私は隣人の霊魂《=隣人の心・気持ち》に対して愛徳を持てそうもありません〉 〈したがって,もし わたくしが「れい てきに」わたくし じしんを あいさない なら〈=わたくし じしん の れいこん《=わたくし じしん の りょうしん・きもち》 に たいして あいとく を もてない なら〉,わたくし は りんじん を あいせそう も ありません〈=わたくし は りんじん の れいこん《=りんじん の りょうしん・きもち》に たいして あいとく を もてそう も ありません〉 ( “… so that if I do not love me (spiritually), I am unlikely to love my neighbour.” ). 然しながら ――( しかしながら ――)( ” But –” )
(訳注4・1) 「霊的自己・霊的隣人(=自己や隣人の霊魂を指す)」=自己や隣人の真の人格的価値や良心(善良な気持ち)を意味する.) 〈「れいてき じこ・れいてき りんじん=《じこ や りんじん の れいこん を さす》」=じこ や りんじん の まこと の じんかく てき かち や りょうしん《ぜんりょう な きもち》を いみ する.〉
(訳注後記4・2 ) 「自己の真の人格的価値」について.
5 霊的な隣人は 肉体的 な自己(=自己の身体的欲求)より愛されなければ為らない (れい てき な りんじん は にくたいてき な じこ より あいされ なければ ならない) ( “5 Spiritual neighbour must be loved above corporal self, …” ).肉体的自己とは即ち(乃ち)私自身の肉体です (にくたい てき じこ とは すなわち わたくし じしんの にくたい です) ( “… i.e., my own body, …” ).何故なら霊は肉体以前に来る物で在り (なぜなら れいは にくたい いぜん に くる もの であり) ( “… because spirit comes before body, …” ),其の訳は神は至福に直接加わるのに対し (その わけ は かみは しふく に ちょくせつ くわわる のに たいし ) ,肉体は(霊魂を通して)間接的にだけ加わるものだからです (にくたいは〈れいこんを とおして〉かんせつ てき に だけ くわわる もの だから です) ( “… because spirit partakes directly in bliss, while body partakes only indirectly (through spirit).” ). (訳注後記 5・1 )
(訳注後記 5・1)「肉の欲・目の欲・生活のおごり」 〈新約聖書:使徒ヨハネによる第一の書簡・第2章16節〈12-17節を掲載〉を参照.
6 或る隣人達は,他の隣人達より愛されなければならない (ある りんじん たち は,ほか の りんじん たち より あいされ なければ ならない) ( “6 Some neighbours must be loved more than others, …” ).何故なら,全ての隣人達は神に対する客観的な物と私に対する主観的な物という愛徳の両極への近さで,其其(其々)異なる存在だからです (なぜなら,すべて の りんじん たち は かみ に たいする きゃっかん てき な もの と わたくし に たいする しゅかん てき な もの と いう あいとく の りょうきょく への ちかさで,それぞれ ことなる そんざい だからです) ( “… because they all vary in their closeness to one of the two poles of charity, objective to God, or subjective to me.” ).諸諸の聖人達は神により近く,諸諸の隣人達は私により近い存在です (もろもろの せいじん たち は かみ に より ちかく,もろもろの りんじん たち は わたくし に より ちかい そんざい です) ( “Saints are closer to God, neighbours to me.” ).
7 客観的に言えば,諸聖人は諸親族(=親戚)より愛されなければならない (きゃっかん てき に いえば,しょ せいじん は しょ しんぞく〈=しんせき〉 より あいされ なければ ならない) ( “7 Objectively, Saints will be loved more than relatives, …” ).だが,主観的には諸隣人の方が諸聖人より強く愛されるでしょう (だが,しゅかん てき には しょ りんじん の ほう が しょ せいじん より つよく あいされる でしょう) ( “… but subjectively neighbours will be loved more intensely than Saints, …” ).何故なら,諸隣人の方が色々な形で諸聖人より近い存在だからです――「愛徳は家庭から始まる」です (なぜ なら,しょ りんじん の ほう が いろいろ な かたち で しょ せいじん より ちかい そんざい だから です――「あいとく は かてい から はじまる」です) ( “… because in a variety of ways they are closer – “Charity begins at home.” ” ).
8 基本的には,諸諸の血縁の親族(親戚)達は親族(親戚)で無い者より愛されなければならない (きほん てき には,もろもろ の けつえん の しんぞく〈しんせき〉たち は しんぞく〈しんせき〉 でない もの より あいされ なければ ならない) ( “8 Essentially, blood-relatives will be loved above non-relatives, …” ).何故なら,血縁は自然な物で,固定的且つ実体的な物だからです (なぜなら,けつえん は しぜん な もの で,こてい てき かつ じったい てき な もの だから です) ( “… because blood-ties are natural, fixed and substantial.” ).但し,偶然的に血縁関係で結ばれた親族(親戚)以外の友情の絆の方がより強い事が有ります (ただし,ぐうぜん てき に けつえん かんけい で むすばれた しんぞく〈=しんせき〉いがい の ゆうじょう の きずな の ほう が より つよい こと が あります) ( “Accidentally however, other ties of friendship can be more powerful.” ).
9 客観的には,両親は子供達より愛されなければならない (きゃっかん てき には,りょうしん は こども たち より あいされ なければ ならない) ( “9 Objectively, parents are to be loved more than children, …” ).何故なら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近い存在だからです (なぜなら,せいめい や おおく の りとく の げんせん として,りょうしん は かみ に より ちかい そんざい だから です) ( “… because as sources of life and of many benefits, parents are closer to God, …” ).だが,主観的には,幾つかの理由で,子供達の方が私達により近い存在です (だが,しゅかん てき には,いくつか の りゆう で,こども たち の ほう が わたくし たち に より ちかい そんざい です) ( “… but subjectively children can be closer to us for several reasons.” ).
10 父親は母親より愛されなければならない. 此れは字義通りです (ちちおや は ははおや より あいされ なければ ならない. これ は じぎ どおり です ) ( “10 Father should be loved more than mother, as such , …” ).何故なら,私達に生命を与える時に其其(其々)が果たす役割を見れば (なぜなら,わたくし たち に せいめい を あたえる とき に それぞれ が はたす やくわり を みれば) ( “… because by the part each plays in giving us life,ten …” ),父親は形式的で能動的で在るのに対し (ちちおや は けいしき てき で のうどう てき である のに たいし) ( “… the father is formal and active whereas …” ),母親は物質的(母系的)( “… the mother is material ( maternal ) ” )で受動的だからです (ははおや は ぶっしつ てき〈ぼけい てき〉で じゅどう てき だから です) ( “… the mother is material ( maternal ) and passive …” )(聖トマスは,今日見られる様な変性した人間で無く,正常な状態の人間に就いて書きました) (せい とます は ,こんにち みられる ような へんせい した にんげん でなく,せいじょう な じょうたい の にんげん に ついて かきました) ( ” (St Thomas was writing about human beings who are normal and not de-natured as they are today). ” ).
11 客観的には,両親は妻より愛される事に為る (きゃっかん てき には,りょうしんは つま より あいされる こと に なる) ( “11 Objectively, parents are to be loved more than wife, …” ).何故なら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近いからです (なぜなら,せいめい や おおく の りとく の げんせん として,りょうしん は かみ に より ちかい から です) ( “… because as sources of life and of many benefits they are closer to God, …” ).然し,主観的には,妻は夫と合って「(二人は)一体」である為,両親以上に愛される物です (しかし,しゅかん てき には,つま は おっと と あって「〈ふたり は〉いったい」で ある ため,りょうしん いじょう に あいされる もの です) ( “… but subjectively she who is “one flesh” with her husband is to be loved the more.” ) (訳注後記11・1 )
(訳注後記11・1)エフェゾ人への書簡:第5章31節.〈全章《第1-6章》を掲載〉 .
12 客観的には,私達に善行を行う者は私達が善行を与える者より愛される事に為る (きゃっかん てき には,わたくし たち に ぜんこう を おこなう もの は わたくし たち が ぜんこう を あたえる もの より あいされる こと に なる) ( “12 Objectively, somebody doing good to us is to be loved more than somebody we do good to, …” ).何故なら,彼等は私達に取って善の源泉だからです (なぜ なら,かれら は わたくし たち に とって ぜん の げんせん だから です) ( “… because they are a source of good to us, …” ).然し,主観的な身近かさの為,私達は私達が善行を与える者をより愛する事が有ります (しかし,しゅかん てき な みぢか さ の ため,わたくし たちは わたくし たち が ぜんこう を あたえる もの を より あいする こと が あります) ( “… but by subjective closeness we love the more somebody that we do good to, …” ).詰まり(詰り),「受け取るより与える方が恵まれている」と言う訳です (つまり,「うけとる より あたえる ほう が めぐまれて いる」と いう わけ です) ( “… for various reasons, e.g . “It is more blessed to give than to receive.” ” ) (訳注後記12・1) .
(訳注後記12・1)「受け取るより与える方が恵まれている」 新約聖書からの引用→使徒行録:第20章35節『…そうして働いて弱い人々を支え,主イエズス自ら言われた*³⁵〈受けるよりも与えることに幸せがある〉ということばを思い出さねばならぬことを,常にあなたたちに示しました」.』(使徒聖パウロのことば(〈注釈〉 *³⁵ このことばは福音書にはない.)
13 天国でも依然として愛徳の順序がある (てんごく でも いぜん として あいとく のじゅんじょ が ある) .何にもまして神に対する愛が一番です (なに にも まして かみに たいする あい が いちばん です) .また,神への近さに就いての隣人の客観的評価は,此の(地上の)世より天国での方が重視されます (また,かみ へ の ちかさ に ついて の りんじん の きゃっかん てき ひょうか は,この 〈ちじょう の〉よ より てんごく で の ほう が じゅうし されます) .
「人種差別」に就いては如何でしょうか? (「じんしゅ さべつ」に ついて は どう で しょうか?) 何の人種が神若しくは私により近いでしょうか? (どの じんしゅ が かみ もしく は わたくし に より ちかい で しょうか?) 何の人種も同じとは限りません (どの じんしゅ も おなじ とは かぎり ません) .「反ユダヤ主義」は? セム人は神の友人でしょうか,其れとも敵でしょうか? (「はん ゆだや しゅぎ」は?せむ じん は かみ の ゆうじん で しょうか,それとも てき〈=かたき〉で しょうか?) (訳注2・1 ) 「(女)性差別」 は? (「〈じょ〉せいさべつ」は?) 今日の女性達は私が神へ向かう時手助けに為るでしょうか,其れとも邪魔を為るでしょうか? (こんにち の じょせい たち は わたくし が かみ へ むかう とき てだすけ に なる でしょうか,それとも じゃま を する でしょうか?) ,「同性愛嫌悪」は如何でしょう? (「どうせい あい けんお」は どうでしょう?) 「ホモ達」は神と如何両立するでしょうか? (「ほも たち」は かみ と どう りょうりつ する でしょうか?)
キリエ・エレイソン(主よ憐れみ給え).
リチャード・ウィリアムソン司教
解説無し
私たちの嘘の世界は往々にして「黒は白だ」と言います.
神を尺度とするなら,カトリック教徒たちは正しく測ります.
カトリック教会( “the Catholic Church” )は「人種差別」 “racism” についてどう考えるでしょうか? 「反ユダヤ主義」 “anti-semitism” については? 「性差別」 “sexism” については? あるいは「同性愛嫌悪」 “homophobia” については? ほかにも多々あります.誰もがほかの誰に対しても親切だと想定されているリベラルな世界で,私たちすべてが憎むべきような新しい階級の人々について「差別語禁止」が定期的に出てくるのは驚くべきことではないでしょうか? カトリック教会は,(その創立者であられる)神授の真の教師(=神の御独り子主イエズス・キリスト)( “its divine Master” )の聖教に従い私たちは隣人を愛し,誰も憎むべきでないと説いています(訳注2・2 ).だが教会は,私たちに仲間のすべてを無差別に愛せとは説いていません.偉大なカトリック教の神学者が私たちの神や人に対する愛にどのような順序をつけたか振り返ってみましょう.以下に紹介するのは聖トマス・アクィナス( “St Thomas Aquinas” )の「神学大全」( “Summa Theologiae” )に含まれる13か条の骨子,第2部第2巻,問26です.
1 愛徳 “Charity” には一つの真正の順序がある.なぜなら,それは超自然的至福における友情であり,その至福は神を出発点とするものだからです.あなたが出発点から物事をたどる場合,いつでも順番をつけるでしょう.(公教徒〈=カトリック教徒〉が重要な問題となるといかにただちに神に委ねるかに注目してください.リベラル派は自分たちの「親切さ」 “niceness” の出発点について,まず何に委ねるのでしょうか?ナチスに対する憎悪でしょうか? 真面目な問いです…)
2 愛徳においては隣人 “neighbour” より神を愛さなければならない.なぜなら,愛徳は至福における友情であり,私自身や私の隣人のためのあらゆる至福は神を源泉としているからです.(リベラル派は自らの幸福の源泉をどこに置いているのでしょうか? 自己達成感でしょうか? それとも自分たちの仲間でしょうか? これらは,幸福の形態としては相対的に貧弱なものです.)
3 神は自己以上に愛されなければならない.なぜなら,あらゆる(無傷の)生き物はそれぞれのやり方で,自分たち自身の善より共通の善を自然に愛すからです.神はあらゆるものの中で,自然的かつ超自然的な共通の善です.
4 霊的自己 ” Spiritual self” は霊的隣人 “spiritual neighbour “より愛されなければならない.なぜなら,私は隣人より私自身に近い存在だからです.したがって,もし私が「霊的に」私自身を愛さないなら,私は隣人を愛せそうもありません. しかしながら ――
5 霊的な隣人は 肉体的な ” corporal ” 自己より愛されなければならない.肉体的自己とはすなわち私自身の肉体です.霊(霊魂)は肉体以前に来るものであり,霊は至福に直接加わるのに対し,肉体は(霊魂を通して)間接的にだけ加わるものです.
6 ある隣人たちは,ほかの隣人たちより愛されなければならない.なぜなら,すべての隣人たちは神に対する客観的なものと私に対する主観的なものという愛徳の両極への近さで,それぞれ異なる存在だからです.聖人は神により近く,隣人は私により近い存在です.
7 客観的に言えば,聖人は親戚より愛されなければならない.だが,主観的には隣人の方が聖人より強く愛されるでしょう.なぜなら,隣人の方が色々な形で聖人より近い存在だからです.「愛徳は家庭から始まる」です.
8 基本的には,血縁の親戚は親戚でない者より愛されなければならない.なぜなら,血縁は自然なもので,固定的かつ実体的なものだからです.ただし,偶然的に血縁親戚以外の友情の絆の方がより強いことがあります.
9 客観的には,両親は子供たちより愛されなければならない.なぜなら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近い存在だからです.だが,主観的には,いくつかの理由で,子供たちの方が私たちにより近い存在です.
10 父親は母親より愛されなければならない. これは字義通りです .なぜなら,私たちに生命をあたえるときにそれぞれが果たす役割を見れば,父親は形式的で能動的であるのに対し,母親は物質的(母系的)で受動的だからです(聖トマスは、今日見られるような変性した人間でなく,正常な状態の人間について書きました).
11 客観的には,両親は妻より愛されることになる.なぜなら,生命や多くの利得の源泉として,両親は神により近いからです.しかし,主観的には,妻は夫と「一心同体」であるため,両親以上に愛されるものです.
12 客観的には,私たちに善行を行う者は私たちが善行を与える者より愛されることになる.なぜなら,彼らは私たちにとって善の源泉だからです.しかし,主観的な身近かさのため,私たちは私たちが善行を与える者をより愛することがあります.つまり,「受け取るより与える方が恵まれている」というわけです.
13 天国でも依然として愛徳の順序がある.何にもまして神に対する愛が一番です.また,神への近さについての隣人の客観的評価は,この世より天国でのほうが重視されます.
「人種差別」についてはどうでしょうか? どの人種が神もしくは私により近いでしょうか? どの人種も同じとは限りません.「反ユダヤ主義」は? セム人は神の友人でしょうか,それとも敵でしょうか? 「性差別 は?」 今日の女性たちは私が神へ向かうとき手助けになるでしょうか,それとも邪魔をするでしょうか? 「同性愛嫌悪」はどうでしょう? 「ホモたち」は神とどう両立するでしょうか?
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
(訳注の続き)
(訳注後記 0・2 ) ① (i) 「イエズス」の御名の意義について→新約聖書・聖マテオによる聖福音書:第1章18-25節を参照.
(訳注後記 1・1)「神の十戒」を参照→「神の十戒」=「天主の十戒」
『…イエズス・キリストの誕生は次のようであった. *¹⁸ 母のマリアはヨゼフのいいなずけであったが,同居する前に,聖霊によって身ごもっているのがわかった. *¹⁹ 夫のヨゼフは正しい人だったので,彼女を公に辱めようとせず,ひそかに離別しようと決心した.彼がこうしたことを思い煩っていたとき,突然夢の中に主の天使が現れて言った,「ダビドの子ヨゼフよ,ためらわずにマリアを妻として迎えよ.マリアは聖霊によって身ごもっている.彼女は子を生むからその子を *²¹ イエズス と名づけよ.何故なら 彼は罪から民を救う方 だからである」.これらのことは預言者によって主が言われたみことばの実現であった,
「処女(おとめ)が身ごもって子を生む.その名は エンマヌエル と呼ばれる」.
その名は「 神はわれわれとともにまします 」という意味である.
目覚めたヨゼフは主の天使から命ぜられたとおりに妻を迎え入れた. *²⁵ そしてマリアは * 子を生んだ.だがヨゼフは彼女を知らなかった.彼はその子をイエズスと名づけた.』
(注釈)
イエズスの誕生 ( 1 ・18-25)
*¹⁸ 嫁はある期間夫の家に入らなかった.それでヨゼフとマリアも,すでに夫婦であったにもかかわらず一緒に住んでいなかった.二人の結婚は正当なものだった.福音史家もすぐあとでヨゼフを夫と呼んでいる.
*¹⁹ ヨゼフは律法を完全に守る「正しい人」であった.彼はマリアを訴える権利があった.しかしまた一方では彼女の貞潔を疑えなかったので,訴えて辱めるに忍びなかった.
*²¹ イエズス とは「 ヤベ(神)が救う 」という意味の名前である.
*²⁵ イエズスの超自然的誕生を強調する.それゆえマリアの処女性が守られたことを証する. マリアがイエズス誕生前も誕生後も処女であったことは,カトリック教会の信仰箇条である .
*²⁵ ブルガタ訳には「初子」とあるが,これはたぶんルカ(2・7)による後世の書き入れであって,批判テキストにこのことばはない.ただ「子」とある.
(マテオ聖福音書内の該当箇所を追って掲載いたします.)
訳注の掲載を続けます.
本投稿記事・第425回エレイソン・コメンツ「愛徳の順序」 “CHARITY’S ORDER”( 2015年9月5日付)は2015年10月30日18時05分に掲載されました.