エレイソン・コメンツ 第255回 (2012年6月2日)
神は無限の存在(訳注・ “infinite Being”. 「全存在の大本〈おおもと〉,源〈みなもと〉,始まりとしての無限の存在」 という意味),無限の真実( “Truth” ),無限の善であり( “Goodness” ),無限に正しく( “just” ),無限に慈悲深い( “merciful” ).神の教会( “Church” )はそう教えています.この考えは雄大かつ素晴らしいもので,それについて私に異論はありません.だが,私は神の教会がそれと同時にまた人の霊魂はたった一回大罪を犯しただけで( “for just one mortal sin” )想像を絶するほどの手厳しくむごい永遠の苦しみに導かれる( “…be damned for all eternity to sufferings harsh and cruel…” )と教えていることも知っています.それについては素晴らしいことなどと言えません.この点について私は異論を差しはさみたくなります.
例を挙(あ)げてみます.私は両親が私に生(せい)を授(さず)けると決める前に相談など受けませんでしたし,私の存在についての,いわば,契約条件についても相談されませんでした.もし前もって相談されていたら,私は教会が教えるような,どちらの場合も共に果てしなく続く,想像もできないほどの至福 “bliss” か想像できないほどの苦痛 “torment” のいずれかを取るといった極端な二者択一( “such an extreme alternative” )に異論を唱えたでしょう.その代わり,私は天国にいる期間が短いのと引き換えに短期間だけ地獄に陥(おちい)るリスク( 訳注・ “only an abbreviated Hell”,=短縮された地獄滞在期間さえ耐えれば済む)を伴(ともな)うもっと穏当(おんとう)な「契約」( “a rather more moderate “contract”” )を受け入れたでしょう.だが,私は事前の相談を受けませんでした.至福と苦痛のいずれも果てしなく続くというのは,私のこの世での( “on earth”,=地上での )短い人生,10年,20年,50年かせいぜい90年ていどの間に今日は在り明日には逝(い)くという束(つか)の間の人生にはとても釣り合わないように思えます.生きとし生けるもの(=人間)は草のごとし( “All flesh is like grass” )ー「人は朝に花開き…夕べに倒(たお)れ,渇(かわ)き,枯(か)れる」(詩編・第90篇6節)( ““In the morning man shall flourish… in the evening he shall fall, grow dry and wither” (Ps.
この問題は私たちに真剣な内省を求めます.次のようなことがらを仮に考えてみましょう; すなわち,神が存在されること,神はその教会が言うように正しい方であること,誰に対してもその人の同意なしに重荷を押し付け負わせるのは不当・不公平であること,この世の人生ははかなく,永遠に比べれば煙草の煙のようなものであること,人は誰しもひどい罪を犯していると自覚しない限りひどい罰を受けるはずがないことなどについて,考えてみましょう.こう考えた場合,存在されるはずの神がどうして正しいと言えるのでしょうか? もし神が正しいとすれば,論理必然的にもの心ついた人は誰しも自分が永遠なるものを選んだこと,そしてその選択がどういう意味を持つのかが分かる年齢まで生き続けなければならないはずです.だが,そのようなことは,たとえば神がいたるところで無視され,個々人,家庭,国家の日常で未知のものである今日の世界で果たして可能でしょうか?
その答えは,神は個々人,家庭,国家よりも先におられた(存在される)上位の存在であり( “God comes before individuals, families and States” ),神はあらゆる人間に先立ちどんな人間とも一切かかわることなく無関係に( “prior to all human beings and independently of them all” ),一人ひとりの人の心・霊魂の内部に「語りかける」のであり( “he “speaks” within every soul” ),したがって宗教教育が役に立っていないような霊魂(=人)でも自分が日々選択をしていること,自分だけが自らのために選択していること,そしてその選択が重要な意味を持つことを分かっている( “…still aware that it is making a choice each day of its life, that it alone is making that choice for itself, and that the choice has enormous consequences.” )と考える中でしか見いだせないでしょう.だが,もう一度繰り返しますが,今日私たちが身の周りに見る世界のような神のいない世界( “the godlessness of a world” )で,そのようなことが果たして可能でしょうか?
(それは可能です.)なぜなら,(人々の)心・霊魂への神の「語りかけ」は,いかなる人間による語りかけあるいは世に存在しうるその他のいかなるものによる語りかけよりも,はるかに深く,より絶え間なく続き(=持続し),存在感があり,訴えるものが強い(=〈人の〉心を動かす力が強い)からです.神のみが私たちの霊魂を創造されました.神は無限に存在し続け,その永遠の時空(じくう)の瞬間瞬間に( “for every moment of its never ending existence” )霊魂を創造し続けるでしょう.それゆえに神は一つひとつの瞬間ごとに人の霊魂にとってより親密で近しい存在です.たとえその霊魂の人としての両親と比べたとしても,すなわち単に(肉身を生み出して)霊魂に身体(=肉身) —身体というものは唯一神のみがその存続を支えられる物質的要素から作り出され(生まれ)るもの( “…body – out of material elements being sustained in existence by God alone.” )ですが— を合体させ一つに組み立てただけの両親と比べても,神はその両親よりずっと霊魂のより側近(そばちか)くにおられる存在です.同じように,神の善(=善良さ)は魂がその生涯に享受(きょうじゅ)するあらゆる善い物事の背後や内部またそのすぐ下(底)に潜(ひそ)んでおり,霊魂はそれが神の無限なる善(善良さ)( “the infinite goodness of God” )から生じた(=派生〈はせい〉した)副産物にすぎないことを心の奥底で気づいています.「お黙りなさい.私はあなたが誰のことを話しているのか分かっています」と,ロヨラの聖イグナチオ( “St.
「おお神よ,私はあなたに望みを託(たく)ました.どうぞ私を狼狽(ろうばい,うろたえ,)させないでください」(詩編・第31篇2節)( “In thee, O God, have I hoped, let me never be confounded” (Ps.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
第2パラグラフの訳注:
旧約聖書・詩編:第90篇6節
89:6
『朝には花ひらき,のび,
夕べにはしおれて枯れる.』
1 第90篇 *神の人モーゼの祈り.
主よ,あなたは代々に,われらの逃れ場だった.
2 山々が生まれるより早く,地と世を生むより早く,
神よ,永遠から永遠へとあなたは存在する.
3 あなたは人をちりに返らせ,
そしてこう言われる,「人の子らよ,*返れ」.
4 御目には千年すら,過ぎ去った昨日のごとく,
夜の一刻のごとくである.
5 *あなたは朝の夢のように,
もえ出る草のように彼らを消し去る.
6 朝には花ひらき,のび,
夕べにはしおれて枯れる.
7 われらは御怒(おんいか)りによって衰(おとろ)え,
憤(いきどお)りによっておじ恐れる.
8 あなたはわれらのとがを御目の前に,
われらのひそかごとをみ顔の光に置かれた.
9 *われらの日々は御怒りによって過ぎ,
われらの年を一息のように消された.
10 われらのよわいの日々は七十年,
頑健な人にとっては八十年だが,
その長き間は労苦とむなしさであり,
またたく間にすぎ去り,飛び去っていく.
11 だれがあなたの御怒りの力を,
あなたの御憤りの恐れを知っていようか.
12 *日々を数えることをわれらに教え,
心を知恵に向かわせ,
13 立ちもどり,
あなたのしもべたちをあわれみたまえ.
14 *朝はあなたの愛に飽(あ)かせ,
われらの日々をふるい立たせて喜ばせ,
15 苦しめられた日々,
災いにあわせた年々とてらし合わせて,われらを喜ばせ,
16 み業(わざ)をしもべたちの上に,
み力をその子らにあらわし,
17 神なる主の慈(いつく)しみを下し,
われらのために手の業(わざ)に力をかし,
われらの手の業を助けたまえ.
(注釈)
人間のはかなさ
1 人の世のはかなさについて知恵ある者が黙想する歌.人の生は罪によって短くされた
(〈旧約〉創世の書3章).
3 ちりに返ること(創世の書3・19,ヨブの書10・9,34・15,マカバイの書〈上〉2・63).
5 原典に手が入っているらしい.原文,「あなたは彼らを眠りで満たす」とある.眠りは死のこと(エレミア51・39,57).
9 一つの考えが過ぎ去るように,早くも青春は過ぎた.
12 人間のはかなさを知ることから知識が生まれる.すなわち,「神を恐れること」を知る.
13-17 これは全イスラエルに思いをひろげる.
最後のパラグラフの訳注:
詩編:第31篇2節
30:2
『主よ,私はあなたのうちに逃れる,永遠に恥を受けぬように.
正義をもって私を解き放ちたまえ.』
1 第31篇 歌の指揮者に.ダビドの詩.
2 主よ,私はあなたのうちに逃れる,
永遠に恥を受けぬように.
正義をもって私を解き放ちたまえ.
3 御耳を私に向け,私を救いに急ぎ,
私の身を隠す岩となり,
逃(のが)れの固き城となられよ.
4 あなたは私の岩,私の砦(とりで)である,
み名のために私を導き,引き連れ,
5 私に張られた網(あみ)を破(やぶ)りたまえ.
あなたは私の避難所.
6 私は御手に魂をゆだねる.
真実の神よ,あなたはすでに私を救われた.
7 あなたはむなしい偶像のしもべを憎まれるが,
私は主に身をゆだね,
8 あなたの愛に喜びおどる.
みじめな私を見下(みお)ろし,
私の魂の悩みを知ったあなたは,
9 私を仇(あだ)の手にまかせず,
私の足を広いところに立たせられた.
10 主よ、私をあわれみたまえ,
私は苦悩の中にいる,
涙が私の目と,
のどとはらわたをむしばむ.
11 私の命は悲しみのうちに消え,
年は嘆(なげ)きのうちに去った.
力は悲惨(ひさん)のうちにしぼみ,
骨はとけていった.
12 私は敵に汚名(おめい)を着せられ,
近くの人には恐れられ,
知人には恐怖となり,
外で私を見た人は逃げだした.
13 私は死人のように人の心から忘れられ,
捨てられる瓦礫(がれき)のようになった.
14 私は他人の讒言(ざんげん)を耳にした,いたるところから私に恐怖が襲(おそ)った.
彼らは私に逆らって謀(はか)り,私の命を奪(うば)おうとした.
15 だが,主よ,私はあなたによりたのみ,
「あなたは私の神」と言う.
16 私の運命はあなたの御手にある,私を解放し,
敵としいたげる者の手から救いたまえ.
17 あなたのしもべの上にみ顔を輝かし,
愛によって私を救い,
18 あなたにこいねがう私を辱(はずかし)めたもうな,
罪人は恥辱を受けよ,彼らを黄泉(よみ)で硬(こわ)ばらせ,
19 いつわりのくちびるを,
高慢と侮蔑(ぶべつ)で無礼な口をきく者を黙らせよ.
20 あなたの慈しみは深い.
あなたを恐れる人々のためにそれを備え,
あなたによりたのむ人々のために,
人の子らの前でそれを蓄(たくわ)えたもう.
21 あなたは彼らを,み顔の隠れ場に隠し,
人の密謀(みつぼう)から遠ざからせ,
幕屋(まくや)の下におおい隠して,
かむ舌に近づけなかった.
22 守りの固い町で,
私に豊かにあわれみを示された主を賛美しよう.
23 私は不安のうちに,
「あなたの御目の前から断ち切られた」と言ったが,
それなのにあなたは,
私があなたに向かって叫んだとき,
私の願う声を聞かれた.
24 主を愛せよ,敬虔な者たちよ,
主は忠実な者を守り,
高慢な者にはひときわ厳しく報いられる.
25 勇ましくあれ,心を強くもて,
主に希望をおく者たちよ.
(注釈)
試練の時の祈り
6 神への信頼は救いによって報いられる.
キリストが十字架上でとなえた祈りの一つがこれである(ルカ聖福音23・46).
16 ヘブライ語では「私のとき」,これは財産や経験なども含む.