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教皇ベネディクト16世のエキュメニズム(世界教会主義)-6-

エレイソン・コメンツ 第261回 (2012年7月14日)

ヴォルフガング・シューラー博士( “Dr.

教皇ベネディクト16世はカトリック教会から切り離されたカトリックの破片( “Catholic pieces” )は依然(いぜん)としてキリストの教会( “the Church of Christ” )に所属し続けるとお考えです.これに対しシューラー博士は私たちの主に従い(ヨハネ聖福音書15:1−7)(訳注後記),教会は生き物であり,そこから切り離された枝(えだ)は幹(みき)に支(ささ)えられず枯(か)れて死に果てると反論しています.したがって,もし聖ピオ十世会が人間の宗教という病(やまい)に侵(おか)されている公会議の木に接ぎ木(つぎき)されれば,たちまちその病気を移されてしまうでしょう.以下,この現実を示すルフェーブル大司教の言葉を三つ引用します.

1988年の司教聖別に何年も先立つ1984年,ルフェーブル大司教は,聖ピオ十世会が「教会内に戻っても戦い続けるのは可能で,あれもこれも出来る( “to do this, to do that” )だろう」という幻想(げんそう)を前もって一蹴(いっしゅう)しました.「そんなことは絶対ありえません.組織の中へ戻り,その上層部(じょうそうぶ,“superiors” )の下に身を置き,中へ入ったらすべてをひっくり返すなどとても期待できません.実際には,彼ら上層部は私たちを窒息させるのに必要なすべてのものを持っています.彼らにはあらゆる権限があります」( “That is absolutely untrue.

司教聖別直前の1988年,大司教は「ローマ教皇庁はあらゆるものが第二バチカン公会議に従うよう望んでおり,私たち(聖ピオ十世会)には伝統を守る余地をわずかばかり残すだけです.( “Rome wants everything to go Vatican II, while they leave us a little bit of Tradition.” )…彼ら(ローマ)は自(みずか)らの立場を変えようとしません.私たちはそういう人たちの手中(しゅちゅう)に身をゆだねることはできません.自分を騙(だま)すことになります.私たちは自らが食い物にされるのを認めるつもりはありません.( “(…) They are not changing their position.

司教聖別直後の1989年,大司教は聖ピオ十世会は教会の外にいるより中にとどまることで教会のためにもっと役立つことができるという主張に対し,次のように答えています.「私たちはどの教会のことを話しているのでしょうか? もし,公会議派教会( “Counciliar Church” )だと言うなら,カトリック教会を望んで40年間も公会議と闘ってきた私たちは公会議派教会を,建前上カトリックにするためそこへ戻るべきでしょう.だが,それはまったくの幻想にすぎません.“What Church are we talking about ? If you mean the Conciliar Church, then we who have struggled against the Council for 40 years because we want the Catholic Church, we would have to re-enter this Conciliar Church in order, supposedly, to make it Catholic.

結論を言います.もし聖ピオ十世会が何らかの実務的な合意とか教会法の秩序立て ( “any practical agreement or canonical regularization” )によって,2009年 — 2011年の教理に関する論議( “the Doctrinal Discussions of 2009-2011” )が十分に示したように第二バチカン公会議の考えに固執し続ける公会議教会当局者の下( “under the Conciliar authorities of the Church that are still firmly attached to the ideas of Vatican II” )に身を置くなら,真の(カトリック)信仰を守ろうとするその努力( “defence of the true Faith” )は「抑え込(おさえこ)まれ,食いつぶされ,無力にされて」(”would be “stranged, eaten up, swamped” )しまうでしょう.聖ピオ十世会は公会議派教会という生木(なまき)に接ぎ木されれば,病に侵された公会議派の命を受け継(つ)がざるをえないでしょう.とんでもないことです!( “Grafted into the living Conciliar whole, it could not help receiving from it the diseased Conciliar life.

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

第2パラグラフの訳注:

新約聖書・ヨハネによる聖福音書:第15章1ー7節 (1−11節を掲載)

日本語
『 1 私はほんとうのぶどうの木で,私の父は栽培する者である.
2 父は私にあって実を結ばぬ枝をすべて切り取り,実を結ぶ枝をすべて,もっと豊かに結ばせるために刈り込まれる.
3 あなたたちは,私の語ったことばを聞いたことによってすでに刈り込まれた者である.
4 私にとどまれ,私があなたたちにとどまっているように.木にとどまらぬ枝は自分で実を結べぬが,あなたたちも私にとどまらぬならそれと同じである.
5 私はぶどうの木で,あなたたちは枝である.私がその人の内にいるように私にとどまる者は多くの実を結ぶ.私がいないとあなたたちには何一つできぬからである.
6 私にとどまらぬ者は枝のように外に投げ捨てられ,枯れ果ててしまい,人々に拾い集められ,火に投げ入れられ,焼かれてしまう.
7 あなたたちが私にとどまり,私のことばがあなたたちにとどまっているなら,あなたたちは望みのままにすべてを願え.そうすればかなえられるだろう.
8 あなたたちが多くの実をつけることは,私の父の光栄であり,そして,あなたたちは私の弟子になる.
9 父が私を愛されるように私はあなたたちを愛した.私の愛にとどまれ.
10 私が父のおきてを守り,その愛にとどまったように,私のおきてを守るなら,あなたたちは私の愛にとどまるだろう.
11 私がこう話したのは,私の喜びがあなたたちにあり,あなたたちに完全な喜びを受けさせるためである.』

(注釈)
ぶどうの木と枝
2/ 弟子は恩寵によって,イエズス自身の生命に生きる.神は善業を行わぬ者を捨て,真実に神を愛するものに苦しみと迫害を送ってその愛を清められる.おきてに忠実な実,聖徳の実のことをいう(15・12-17, 〈旧約〉イザヤの書5・7,エレミアの書2・21)

4/ 霊的な命の泉はイエズスである.信仰と愛をもってイエズスに一致しない人に救いはない.聖霊がなければ,人は永遠の救いを得るに足ることを何もなしえない.

8/ 御父は,「み子」によって光栄を受けられる.(14・13,21・19).

11/ 神のみ子,メシア(救世主)としての喜び.

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注:「エレイソン・コメンツ 第241回」の訳注にヨハネ聖福音書・第15章全章を掲載してあります.