エレイソン・コメンツ 第445回 (2016年1月23日)
(解説無し)
悪は生き残るため善によりかかる.
かくして,真の教会を持たない新教会は存続しえない.
私は半年ほど前,司祭はいかなる場合でもカトリック信者が新式ミサ〈祭〉式( “the New Mass (NOM)” )に出席するのを禁じる義務があるとは限らないと言いました.私が言いたかったのは, NOM に出席してもなんら問題がないということではありません.NOM の典礼自体は第二バチカン公会議後に始まった人間中心の誤った礼拝の主役をなすものです.実際のところ,NOM を避ける義務の度合いは,信徒それぞれがその誤りを知っている度合いに比例して決まります.NOM は無数のカトリック信徒たちに自分でほとんど気づかないまま信仰を失わせてしまうことに大きな役割を果たしてきました.
だが,今日でも,カトリック教徒たちが NOM に騙されやすい要因が二つあります.第一の要因は,それがラテン語典礼を施すすべての教会に押し付けられたものだという点です.パウロ6世はあらゆることをして,それが1969年当時絶大と見えた教皇の全権に基づくものであるかのように見せかけました.今日でも,NOM は「普通の」典礼として通用しているのに対し,伝統的な不変のミサ聖祭は公的には「異例な」ものとされています.そのため,47年経った今でも,誠実なカトリック信徒はこれに従って NOM に出席しなければならないと感じているようです.もちろん,実際には,そのような義務などありえません.なぜなら,いかなる教会法もカトリック信徒に NOM に出席することで自らの信仰を危険にさらすことなど義務付けることはできないからです.NOM はことほどさように誤っています.
第二の要因は, NOM がとりわけ1962年,1964年および1967年に巧みに用意された一連の段階的変化を通して徐々に紹介されてきたという点です.その結果,1969年に全面的な改革が実施された時,カトリック信徒たちは目新しいものを受け入れるようになっていました.事実,今日でも NOM の典礼は執行司祭に諸選択肢を与え, NOM を新しい人間中心主義的宗教の正真正銘の儀式として執り行うことも,多数の信徒を騙せるほど真のミサ聖祭に似通った儀式として執り行うこともできるようにしています.このため,新旧典礼にはさしたる違いはないように見えるほどです.もちろん,実際には,ルフェーブル大司教が常に述べていたように,ラテン語による新式典礼より現代語による古い(=旧い)典礼のほうがましです.
この二つの要因,すなわち変革の公的押し付けと NOM の持つ選択的性格は,望んでカトリック信徒になりながらも信徒にとっての正しい道は毎週日曜日に NOM に出席することだといまだに思い込んでいる信徒が多数いるに違いないことを説明するには十分です.そして,この多数の信徒たちの中に,彼らにとって(主観的に)自らの(客観的な)義務と思えるものを守ることで信仰を育んでいるものが一人もいないと誰が断言できるでしょうか?神は信徒にとっての審判官です.だが,カトリック教の伝統を守る信徒たちの多くは自らの信仰が NOM への出席を禁じていることを理解するまでに,はたしてどれほど長い年月にわたって進んで NOM へ出席しなければならなかったのでしょうか?そして,もし NOM がその間に彼らの信仰を失わせたとしたら,彼らはどうやってカトリック教の伝統にたどりついたのでしょうか?典礼執行司祭が NOM の認める諸選択肢をどのように使い分けるかによっては,信仰を育む NOM のあらゆる要素がなくなるとは限りません.とくに,その秘蹟の奉献儀式(=聖別式= the Consecration )が有効な場合はそうです.この可能性は秘蹟における神学をわきまえている者なら誰も否定できないでしょう.
だが,人間性の持つ弱さや,それによりカトリック信徒たちに,その礼拝の中心的典礼に好意的な言葉をほとんど発せずに安易な新宗教を選ぶよう勧めるリスクがあるとしても,新教会の特性に好意的な言葉が発せられるのは何故でしょうか?これには少なくとも二つの理由があります.初めに2番目の理由を言えば,伝統主義運動の枠外にいる信徒から出てくるかもしれない偽善的な軽蔑をかわすためです.そして,第1の理由は「教会空位主義」( “ecclesiavacanism” ) とでも称されるもの,すなわち新教会にはカトリック教的なものが一切残っていないという考え方を退けるためです.理論的には,新教会は全くの腐敗です.だが,実際面では,腐敗はまだ腐っていないが,これから腐るかもしれない何かがなければ存在できません.あらゆる寄生者は宿主を必要とします.そして,もしこの宿主,すなわち真の教会が完全になくなってしまったら,地獄の門がそれに打ち勝つことになるでしょうか?それはありえないことです(使徒聖マテオによる聖福音書・第16章18節) (訳注後記5・1) .
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
エレイソン・コメンツ 第445回 (2016年1月23日)
(解説付)
悪は生き残る為善に寄り掛かる (倚り懸る) .
(あく は いき のこる ため ぜん に より かかる.)
斯く為て,真の教会を持たない新教会は存続為得ない .
(かくして,まこと の きょうかい を もたない
しん きょうかい は そんぞく しえない.)
私は半年程前,司祭は如何なる場合でも公教(カトリック教)信者が新式ミサ聖祭 (訳注後記 2・1) .以下,「新(式)ミサ聖祭」を “NOM” と記す.)( 訳注後記2・2 … “NOM” について.) に出席為るのを禁じる義務が有るとは限ら無いと言いました (わたくし は はんとし ほど まえ,しさい は いかなる ばあい でも かとりっく しんじゃ が しんしき みさ せいさい〈やくちゅう に てん いち.いか,NOM と しるす.〉に しゅっせき する のを きんじる ぎむ が ある とは かぎらない と いい ました) .私が言いたかったのは,NOM に出席為ても何等問題が無いと言う事では有りません (わたくしがいいたかったのは,しんしき みさ てんれい に のっとった みさ せいさい〈= NOM 〉に しゅっせき しても なんら もんだい が ない と いう こと では ありません) ( “The purpose of saying half a year ago that a priest is not obliged in every case to forbid a Catholic to attend the New Mass (NOM) was obviously not to say that the NOM is perfectly alright to attend.” ).NOM の典礼自体は,一九六九(〈壱〉千九百六十九)年に第二バチカン公会議後に始まった人間中心の誤った礼拝の主役を為す物です (NOM の てんれい じたい は,〈いっ〉せん きゅうひゃく ろくじゅう く ねん に だい に ばちかん こう かいぎ ご に はじまった にんげん ちゅうしん の あやまった れいはい の しゅやく を なす もの です) ( “The NOM rite is, in itself, the central act of worship of the false man-centred religion of Vatican II, in whose wake it followed in 1969.” ).実際の所(処),NOM を避ける義務の度合いは,信徒其其(其々)其の誤りを知って居る度合いに比例為て決まります (じっさいのところ,しん しき みさ てんれい に のっとった みさ せいさい〈=NOM〉を さける ぎむ の どあい は,しんと それぞれ が その あやまり を しって いる どあい に ひれい して きまり ます) ( “In fact the obligation to stay away from the NOM is proportional to one’s knowledge of how wrong it is.” ).NOM は無数の公教(カトリック教)信徒達に自分で殆(ん)ど気付か無い儘(侭)信仰を失わせて仕舞う(終う)為まう事に大きな役割を果たして来ました (NOM は むすう の かとりっくしんと たち に じぶん で ほとんど きづかない まま しんこう を うしなわせて しまう こと に おおきな やくわり を はたして きました) ( “It has enormously contributed to countless Catholics losing their faith, almost without realizing it.” ).
だが,今日でも,公教徒(カトリック教徒)達が NOM に騙され易い要因が二つ有ります (だが,こんにちでも,こうきょうと〈かとりっくきょうと〉たち が NOM に だまされ やすい よういん が ふたつ あり ます) ( “But there are two factors which even to this day have made it easy for Catholics to be deceived by the NOM.” ).第一の要因は,其れがラテン語(羅甸語・拉丁語)典礼を施す全ての教会に押し付けられた物だと言う点です (だいいち の よういん は,それ が らてんご てんれい を ほどこす すべて の きょうかい に おしつけ られた もの だ と いうてん です) ( “Firstly, it was imposed on the entire Latin-rite Church…” ).パウロ六世(6世)はあらゆる事を為て(ぱうろろくせいはあらゆることをして),其れが一九六九(1969,千九百六十九,壱千九百六拾九)年当時 (それ が せん きゅう ひゃく ろく じゅう きゅう ねん とうじ) 絶大と見えた教皇の全権に基づく物で有るかの様に見せ掛けました (ぜつだい と みえた きょうこう の ぜんけん に もとづく もの で ある か の よう に みせ かけ ました) ( “…by what Paul VI did all he could to make look like the full force of his Papal authority, which in 1969 seemed immense.” ).今日でも,NOM は「普通の(=通例の)」典礼として通用為て居るのに対し (こんにち でも,NOM は,「ふつう の〈=つうれい の〉」てんれい と して つうよう して いる のに たいし) 伝統的な不変の典礼は公的には「異例な」物とされて居ます (でんとう てき な ふへん の てんれい は こう てき に は 「いれい な」 もの と されて います) ( “Still today the NOM passes for the “ordinary” rite, while the Mass of all time is officially discounted as the “extraordinary” rite, …” ).其の為,四十七(47,四七,四十七,四拾七)年経った今でも (その ため,よんじゅう なな〈しち〉ねん たった いま でも) ,誠実な公教徒(=カトリック信徒)は此れに従ってNOM に出席為なければ為らないと感じて居る様です (せいじつ な こう きょうと〈=かとりっく しんと〉は これ に したがって NOM に しゅっせき しなければ ならない と かんじて いる よう です) ( “…so that even 47 years later an honest Catholic can still feel obliged in obedience to attend the NOM.” ).勿論,実際には,其の様な義務等(抔)有り得ません (もちろん,じっさい には,その よう な ぎむ など あり え ません) ( “Of course in reality there can be no such obligation, …” ).何故なら,如何為る教会法も一公教徒(=カトリック信徒)に (なぜなら,いかなる きょうかい ほう も いち こう きょうと〈かとりっく しんと〉に) ( “… because no Church law can oblige a Catholic …” ) NOM に出席為る事で自らの信仰を危険に晒す事等(抔) (NOM に しゅっせき する こと で みずから の しんこう を きけん に さらす こと など) 義務付ける事は出来ない柄です (ぎむ づける こと は できない から です) ( “… to put his faith in danger, which he normally does by attending the NOM, …” ).NOM は事程左様に誤って居ます (NOM は ことほどさよう に あやまって います) ( “… such is its falsity.” ).
第二の要因は,NOM が取(り)分け千九百六十二年 (1962) 年(壱〈一〉千九百六拾弐〈二〉年・壱九六弐年),(壱・一)千九百六十四 (1964) 年および(壱・一)千九百六十七 (1967) 年に巧みに用意された一連の段階的変化を通して徐々に紹介されて来たと言う点です (だい に の よういん は,NOM が とりわけ せん きゅうひゃく ろくじゅう に ねん および せん きゅうひゃく ろくじゅう なな〈しち〉ねん に たくみ に ようい された いちれん の だんかい てき へんか を とおして じょじょ に しょうかい されて きた と いう てん です) ( “And secondly, the NOM was introduced gradually, in a series of skilfully graduated changes, notably in 1962, 1964 and 1967, …” ).其の結果,千九百六十四 (1964) 年に全面的な改革が実施された時,公教徒(カトリック信徒)達は目新しい物を受け入れる様に成って居ました (その けっか,〈いっ〉せん きゅうひゃく ろくじゅう きゅう〈く〉ねん に ぜんめん てき な かいかく が じっし された とき,こう きょうと〈かとりっく しんと〉たち は めあたらしい もの を うけ いれる よう に なって いました) ( “… so that the wholesale revolution of 1969 found Catholics ready for novelty.” ).事実,今日でも NOM の典礼は執行司祭に選択肢を与え (じじつ,こんにち でも NOM の てんれい は しっこう しさい に せんたく し を あたえ) ( “In fact even today the NOM rite includes options for the celebrant …” ),NOM を新しい人間中心主義的宗教の正真正銘の儀式と為て執り行う事も (NOM を あたらしい にんげん ちゅうしん しゅぎ てき しゅうきょう の しょうしん しょうめい の ぎしき と して とりおこなう こと も) ( “… which make it possible for him to celebrate the NOM either as a full-blooded ceremony of the new humanist religion, …” ),多数の信徒を騙せる程真の典礼に似通った儀式と為て執り行う事も (たすう の しんと を だませる ほど まこと の てんれい に にかよった ぎしき と して とりおこなう こと も) 出来る様に為て居ます (できる よう に して います) .此の為,新旧典礼には然したる違いは無い様に見える程です (この ため,しん きゅう てんれい には さしたる ちがい は ない よう に みえる ほど です) ( “… which make it possible for him to celebrate the NOM either as a full-blooded ceremony of the new humanist religion, or as a ceremony resembling the true Mass closely enough to deceive many a Catholic that there is no significant difference between the old and the new rites.” ).勿論,実際には,ルフェーブル大司教が常に述べて居られた様に,羅甸(ラテン・羅丁)語に依る新〈式〉典礼より現代語に依る旧い(=古い)典礼の方が増しです (もちろん,じっさいには,るふぇーぶるだいしきょうがつねにのべておられたように,らてんごによるしん〈しき〉てんれいよりげんだいごによるふるいてんれいのほうがましです) ( “Of course in reality, as Archbishop Lefebvre always said, better the old rite in a modern language than the new rite in Latin, …” ).
此の二つの要因,即ち(則ち・乃ち)変革の公的押し付けと NOM の持つ選択的性格は (この ふたつの よういん,すなわち へんかく の こう てき おしつけ と NOM の もつ せんたく てき せいかく は) ( “Moreover these two factors, the official imposition of the changes and their sometimes optional character intrinsic to the NOM, …” ),望んで公教徒(=カトリック信徒)に成り(為り)乍らも信徒に取っての正しい道は毎週の主日(=毎週日曜日)に NOM に出席為る事だと未だに思い込んで居る信徒が多数居るに違い無い事を説明為るには十分です (のぞんで こう きょうと〈=かとりっく しんと〉に なり ながら も しんと に とって の ただしい みち は まい しゅう の しゅじつ〈=まい しゅう にちようび〉に NOM に しゅっせき する こと だ と いまだ に おもいこんで いる しんと が たすう いる に ちがい ない こと を せつめい する には じゅうぶん です) ( “… more than suffice to explain that to this day there must be multitudes of Catholics who want and mean to be Catholics and yet assume that the right way to be Catholics is to attend the NOM every Sunday. ” ).そして(然うして),此の多数の信徒達の中に (そして,この たすう の しんと たち の なか に) ,彼等に取って(主観的に)自らの(客観的な)義務と思える物を守る事で信仰を育んで居る者が一人も居ないと誰が断言出来るでしょうか? (かれら に とって〈しゅかん てき に〉みずから の〈きゃっかん てき な〉ぎむ と おもえる もの を まもる こと で しんこう を はぐくんで いる もの が ひとり も いない と だれ が だんげん できる でしょうか?) ( “And who will dare say that out of these multitudes there are none who are still nourishing their faith by obeying what seems to them (subjectively) to be their (objective) duty? ” )神は信徒に取っての審判官です (かみ は しんと に とって の しんぱん かん です) ( “God is their judge, …” ).だが,公教(=カトリック教)の伝統を守る信徒達の多くは (だが,こうきょう〈=かとりっくきょう〉のでんとうをまもるしんとたちのおおくは) 自らの信仰が NOM への出席を禁じて居る事を理解為る迄までに (みずからのしんこうが NOM へのしゅっせきをきんじていることをりかいするまでに) ,果(た)して何れ程長い年月に亘って進んで NOM へ出席為なければ為ら無かったのでしょうか? (はたしてどれほどながいねんげつにわたってすすんで NOM へしゅっせきしなければならなかったのでしょうか?) ( “… but for how many years did easily most followers of Catholic Tradition have to attend the NOM before they understood that their faith obliged them not to do so? ” )然(う)して,若し NOM が其の間に彼等の信仰を失わせたと為たら (そ〈う〉して,もし NOM がそのかんにかれらのしんこうをうしなわせたとしたら),彼等は如何やって公教(=カトリック教)の伝統に辿り着いたのでしょうか?(かれらはどうやってこうきょう〈=かとりっくきょう〉のでんとうにたどりついたのでしょうか?) ( “And if the NOM had in all those years made them lose the faith, how would they have come to Catholic Tradition? ” ) 典礼執行司祭が NOM の認める選択肢を何の様に使い分けるかに依っては( “Depending on how a celebrant uses the options in the NOM, …” ) (てんれいしっこうしさいが NOM のみとめるせんたくしをどのようにつかいわけるかによっては) ,信仰を育む NOM のあらゆる要素が無く為るとは限りません ( “… not all the elements that can nourish faith are necessarily eliminated from it, …” )(しんこうをはぐくむ NOM のあらゆるようそがなくなるとはかぎりません) .特に,其の秘蹟の奉献儀式(=聖別式= the Consecration )が有効な場合は然うです( “… especially if the Consecration is valid, …” ) (とくに,その ひせき の ほうけん ぎしき〈=せいべつ しき= the Consecration 〉が ゆうこう な ばあい は そう です) .此の可能性は秘蹟における神学を弁えて居る者なら誰も否定出来ないでしょう (この かのう せい は ひせき に おける しんがく を わきまえて いる もの なら だれ も ひてい できない でしょう) ( “… a possibility which nobody who knows his sacramental theology can deny.” ).
だが,人間性の持つ弱さや,其れにより公教徒達(=カトリック教信徒達)に (だが,にんげん せい の もつ よわさ や,それ に より こう きょうと たち〈=かとりっく きょう しんと たち〉に) 其の礼拝の中心的典礼に好意的な言葉を殆(ん)ど発せずに安易な新宗教を選ぶ様勧めるリスク(=危険)が有ると為ても (その れいはい の ちゅうしん てき てんれい に こうい てき な ことば を ほとんど はっせず に あんい な しん しゅうきょう を えらぶ よう すすめる りすく〈=きけん〉が ある と しても) ( “However, given the weakness of human nature and so the risk of encouraging Catholics to go with the new and easy religion by the least word said in favour of its central rite of worship, …” ),新教会の特性に好意的な言葉が発せられるのは何故でしょうか? (しん きょうかい の とくせい に こうい てき な ことば が はっせ られる の は なぜ でしょうか?) ( “… why say a word in favour of any feature of the Newchurch? ” ) 此れには少なくとも二つの理由が有ります (これ に は すくなく とも ふたつ の りゆう が あり ます) ( “For at least two reasons.” ).初めに二番目の理由を言えば (はじめ に にばん め の りゆう を いえば) ,伝統主義運動の枠外に居る信徒から出て来るかも知れない偽善的な軽蔑を躱す為です (でんとう しゅぎ うんどう の わくがい に いる しんと から でて くる かも しれない ぎぜん てき な けいべつ を かわす ため です) ( “Secondly, to ward off potentially pharisaical scorn of any believers outside of the Traditional movement, …” ).然為て,第一の理由は「教会空位主義」( “ecclesiavacanism” )とでも称される物 (そして,だい いち の りゆう は「きょうかい くうい しゅぎ」と でも しょう される もの) ,即ち(乃ち)新教会には公教(=カトリック教)的な物は一切残って居ない (すなわち しん きょうかい に は こう きょう〈=かとりっく きょう〉てき な もの はいっさい のこって いない) と言う考え方を退ける為です (と いう かんがえ かた を しりぞける ため です) ( “… and firstly to ward off what is coming to be called “ecclesiavacantism,” namely the idea that the Newchurch has nothing Catholic left in it whatsoever.” ).理論的には,新教会は全くの腐敗です (りろん てき に は,しん きょうかい は まったく の ふはい です) ( “In theory the Newchurch is pure rot, …” ).だが,実際面では,腐敗は未だ腐って居ないが (だが,じっさい めん では,ふはい は まだ くさって いない が) ,此れ柄腐るかも知れない何かが無ければ存在出来ません (これ から くさる かも しれない なにか が なければ そんざい でき ません) ( “… but in practice that rot could not exist without something not yet rotted still being there to be rotted.” ).あらゆる寄生者は宿主を必要と為ます (あらゆる きせい しゃ は やどぬし を ひつよう と します) ( “Every parasite needs a host.” ).然為て,若し此の宿主,即ち(乃ち)真の教会が完全に無く為って終ったら(仕舞ったら) (そして,もし この やどぬし,すなわち まこと の きょうかい が かんぜん に なく なって しまった ら) ( “Also, had this particular host, the true Church, completely disappeared, …” ),地獄の門が其れに打ち勝つ事に成る(為る)でしょうか? (じごく の もん が それ に うち かつ こと に なる で しょう か?) ( “… would not the gates of Hell have prevailed against it? ” ) 其れは有り得ない事です (それ は あり え ない こと です) ( “Impossible.(新約聖書:使徒聖マテオによる(イエズス・キリストの)聖福音書第十六章(一六章)十八節(一八節)) (しん やく せい しょ:しと せい まてお に よる〈いえずす・きりすとの〉せい ふくいん しょ だい じゅうろく しょう じゅうはっ せつ) ( ” (Mt.XVI, 18) ” ).
キリエ・エレイソン.
リチャード・ウィリアムソン司教
訳注 2・1
「新式(新形式)ミサ」「新ミサ(新式ミサ)祭式(式)」について:
第二バチカン公会議で規定された新形式の典礼に則って(のっとって)(=則して〈そくして〉)執行される(=執り行われる)ミサ式』を意味する.「新しいミサ」とも呼ばれる.
訳注 2・2
“NOM” について :
「新(形)式ミサ」「新(式)ミサ(祭)式」「新しいミサ」のラテン語原呼称 “NOVUS ORDO MISSAE” の略称.
訳注 5・1
新約聖書の引用:
聖マテオによる聖福音書
聖書‐バルバロ神父による(ラテン語ウルガタ訳からの)邦訳版:新約聖書‐聖マテオによるイエズス・キリストの聖福音書:第十六(16)章十八(18)節(下線部)(1節から28節まで全章を掲載)
(邦訳)
・聖マテオは,私たちの救主(すくいぬし)( Saviour =キリスト Christ =メシア Messiah)神の御独り子イエズスに召し出されて弟子となった十二(12)使徒の一(1)人で,当時はレビ Levi という名の収税吏(しゅうぜいり)職人だった.
・彼は四(4)福音史家たちのうち最初に福音書を執筆した.聖マテオは,当時パレスチナ地方のユダヤ人が話していたヘブライ語またはシリア=カルディア語(=〈西方〉アラム語)“Syro-Chaldaic” によって福音書を記述した.
・最初の直筆のものは現存していないが,使徒の時代にギリシャ語に翻訳され,ギリシャ語版は原著と同等の権威を持つものと見なされている.
・聖マテオは私たちの主イエズスが昇天された約6年後から聖福音書の執筆を始めた.
(補足説明)
①・聖マテオは,当時(新約聖書の時代)パレスチナ地方の現シリア国西部に当たる場所で,当地のヘブライ人(ユダヤ人)(イエズス御自身も含む)が話していたアラム語(=ヘブライ語+シリア語+カルディア語=“Syro-Chaldaic or Aram æn (Aramaic) で,救世主また生ける神の御子イエズスの最初の福音書を執筆した.
②この原アラム語版聖福音書は,その後エジプトでギリシャ語に翻訳された.このギリシャ語版はギリシャ正教会の聖典となり,後にローマ帝国が東西に分裂して,東ローマ帝国(ビザンティン帝国)から東欧州や亜細亜州諸国にギリシャ正教が伝播(でんぱ・でんぱん)し(東方教会→ロシアや東欧各地の正教会,またシリア→中国方面へ景教会として伝播する等),西ローマ帝国からは,イエズス御自身によって救世主(キリスト)の代理者に任命された使徒聖ペトロの後継者すなわちローマ教皇(=ローマの司教)の下,公教(=カトリック教)として西欧州諸国に拡がった.
・イエズスはユダヤ地方のエルサレムや生まれ故郷のベトレヘム(ダビド王の町と言われる)からはるか北方に位置するガリラヤ地方のナザレトという一寒村の出身だったので,ナザレトのイエズスと呼ばれるようになった.「救(世)主 Saviour =キリスト Christ =メシア Messiah」とは「油注がれた者(=〈唯一の真の〉神に聖別された者) anointed one 」の意である.
・ナザレトは「芽の町」の意である.イエズスはダビドの株から生える新芽であったから,預言者から「ネゼル」(芽)と言われた.
もう一つの解釈,ナザレトは一寒村にすぎなかった.預言者は,ヤベ(神)のしもべ(メシア)が軽蔑の的となるであろうと告げていたので,この意味で,「ナザレ人と呼ばれるであろう」と言った.
(バルバロ神父訳新約聖書:聖マテオ聖福音書:第2章23節の注釈より抜粋)
・救世主は,真の信仰によって救世の御業(受難・十字架上の死・復活)を果たされ,
・原罪の呪縛=「宇宙と地上における悪魔と諸諸の悪の霊」 *(注・後記) が支配する人生(身体・肉だけに限定される霊魂無しの地上の生命)に打ち勝たれ,
・墓から甦(よみがえ)られ,原罪による悪魔の呪縛である「死」 を克服されて,天地の諸王の王となられ,御父なる真の神の右の座につき,天地を永遠に支配される.
・十字架刑での名札→「 I N R I ( I ESVS N AZARENVS R EX I EVDÆORVM) (ラテン語=古代ローマ帝国における公用語=ユダヤ人の・王・ナザレトの・イエズス」と,ヘブライ語・ラテン語・ギリシア語で書かれた.(聖ヨハネ聖福音書19: 19,20)
・当時の「ユダヤ人」とは,今日では「救世主(キリスト)信者」を指す.
・原罪を悔い改め,洗礼の秘蹟を受け,復活された救世主を信じる者は,永遠に生きる. (訳注後記・洗礼の意義について)
*(注) 悪魔は初め,唯一の創造主で在られる真の神の創造による,最も美しく優秀な大天使だった.しかし,被造物に過ぎない身分をわきまえず,自分の美と能力を誇って驕(おご)り高ぶり,神を超えようとする傲慢(ごうまん)の罪を犯して神に背いた為に,神によって天から地に落とされた.
( 訳注後記 ・聖書上の根拠)
・人の命(いのち)は肉体だけに限定されるのではない.
真の信仰 は,霊魂における 真の命 である.→「人はパンだけで生きるのではない.神の口から出るすべてのことば(=真の信仰)によって生きる」(聖マテオ聖福音書:4・4 )
・地上の肉の世界を超越し復活した者は,復活された救世主の天の王国で, 不滅の身体と霊魂を授かり,永遠に生きる (新約聖書・聖ルカによる聖福音書:第24章全章,特に第38-43節を参照).
→(新約聖書・聖ルカによる聖福音書:第24章第38-43節)
第5部 復活・出現・昇天
使徒たちへの出現 ( 24 ・36‐43)
『36 …… イエズスは彼らの中に立ち,「あなたたちに平和」と言われたので ,
37 彼らは驚き恐れ,幽霊を見ているのだと思ったが ,
38 イエズスは言われた,「なぜ取り乱すのか.なぜ心に疑いを起こすのか .
39 私の手と足を見よ.私自身だ.触れて確かめよ.あなたたちの見ている私のこんな肉と骨は霊にはない 」.
40 そう言って,手と足を見せられると ,
41 彼らは喜びのあまり信じられず,驚いていると,イエズスは,「ここに何か食べ物があるか」と言われた .
42 彼らが焼いた魚一片 (きれ) (と一房の蜂蜜)を差し出すと ,
43 イエズスはそれを取り,彼らの前で食べ,(残りを取って彼らに与えられた) .』
私たちの主,救世主(=キリスト)は 御復活後 こう仰せられた ,
『「18 私には天と地のいっさいの権威が与えられている .
19 行け,諸国の民に教え,聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)の名によって洗礼を授け ,20 私が命じたことをすべて守るように教えよ.私は世の終わりまで常におまえたちとともにいる 」.』
(つづく…)
聖マテオによる聖福音書:第16章
天からのしるし ( 16 ・1-4)
『1 イエズスを試そうとして,ファリザイ人とサドカイ人がやってきて,天からのしるしを示してくださいと頼んだ .
2 イエズスは答えられた,「日暮れになると,〈空が真っ赤だから晴天になろう〉と言うし ,
3 明け方になると,〈空が赤黒くて曇っているから今日は天気が悪いだろう〉と言う.あなたたちは空のけしきを見分けられながら,*時のしるしを見分けられぬ .
4 * 邪悪な不義の代はしるしを求めるけれどもヨナのしるし以外のしるしは与えられぬ」.そして彼らを打ち捨てて去っていかれた .』
(注釈)
天からのしるし ( 16 ・1-4)
3 メシアの時代.そのしるしはイエズスの奇蹟である.
4 ユダヤ人は天気を知っても,メシアの時代を知ろうとしない.イエズスが彼らに与えるしるしはその復活である.死の三日のち墓からよみがえり神性を証されるであろう.
(訳注後記) ファリザイ人,サドカイ人について.
ファリザイ人のパン種 ( 16 ・5 – 12)
『5 弟子たちは向こう岸へ行ったが,パンをもっていくのを忘れた.
6 * するとイエズスは,「目を開けよ.ファリザイ人とサドカイ人とのパン種を信用するな」と言われた.
7 弟子たちは思案して,「私たちがパンをもってこなかったからだろう」と言い合った.
8 するとイエズスは,その考えを見抜いて言われた,「信仰うすい者たちよ,なぜパンがないと思案しているのか.
9 まだわからないのか.五つのパンを五千人に分けて,その余りを幾かご集め,
10 七つのパンを四千人に分けて,その余りを幾かご集めたかを忘れたのか.
11 私がパンのことを言ったのではないとなぜ悟らないのか.ただ,ファリザイ人とサドカイ人のパン種に気をつけよ 」.
12 弟子たちは,気をつけよと言われたのがパン種のことではなくて,ファリザイ人とサドカイ人の教えであることを悟った .』
(注釈)
ファリザイ人のパン種 ( 16 ・5 – 12)
6 ヘブライ人の有識階級の間では,パン種を,下等本能,または他人を腐敗させるものの象徴として使っていた.
ペトロの宣言 ( 16 ・13‐20)(注・第18節は下線部分)
『13 * フィリッポのカイザリア地方に来られたイエズスは,弟子たちに,「人々は人の子をだれだと言っているのか」と聞かれた .
14 弟子たちは,「ある人は洗者ヨハネと言い,ある人はエリア,またある人はエレミアあるいは預言者の一人だと言っています」と答えた .
15 イエズスが,「ところで,あなたたちは私をだれだと思うのか」と言われると ,
16 * シモン・ぺトロが,「あなたはキリスト,生ける神の子です」と答えた .
17 イエズスは,「*シモン・*バルヨナ,あなたは幸いな人だ.その啓示は*血肉からのものではなくて,天にまします父から出たものである .
18 私は言う.あなたは*ペトロである.私はこの岩の上に私の教会を立てよう.*地獄の門もこれに勝てぬ .
19 私はあなたに天の国のかぎを与える.あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ,地上で解くものはみな天でも解かれる」と言われた .
20 さらに,「私が*キリストだということをだれにも言うな」と弟子たちを戒められた .』
(注釈)
ペトロの宣言 ( 16 ・13‐20)
13 この地方はヘロデ大王の第三子フィリッポの分国に属し,パレスチナのカイザリアとは別である.
16 ペトロはイエズスのメシア性ばかりでなく,その神性をも宣言する.
17‐19 ペトロは,信仰と道徳の方面において全教会の最高のかしら,最高審判者,最高の師である.その明らかな証拠が,17節以下のイエズスのことばにある.
* バルヨナとはアラマイ(=アラム)語で,ヨナの子の意.
* 「血肉」というセム的な言い方は,人間の弱くはかない面を特に表す表現法である.
18 イエズスの用語では「岩」をペトロという.公教会(=カトリック教会)は一つの建物であり,イエズスがその建築家,ペトロがその土台である.
* 「地獄の門」とは悪魔の力を意味する.
20 メシア(Messiah = Christ〈キリスト〉=救世主)のこと.
受難の預言 ( 16 ・21-23)
『21 この時以来,イエズスは,自分がエルサレムに行って長老,司祭長,律法学士たちから多くの苦しみを受け,そして殺され,三日めによみがえることを教え始められた .
22 するとペトロはイエズスを引き止めて,「主よ,そんなことは起こりませんように.いやいや,そんなことが身の上に起こることはありません」と言った .
23 イエズスはふり向き,ペトロに向かって言われた,「サタン,引き退(さが)れ.*私の邪魔をするな.あなたが思っているのは神の考えではなく人間の考えだ 」.』
(注釈)
受難の預言 ( 16 ・21-23)
23 イエズスは父の定めた道を歩かねばならぬ.ペトロは良いことと思ってしたのだが,それがイエズスの道の邪魔になった.
離脱 ( 16 ・24-28)
『24 そのとき,イエズスは弟子たちに言われた,「私に従おうと思うなら,自分を捨て,自分の十字架を担(にな)って従え .
25 * 命 (いのち) を救おうと思う者はそれを失い,私のために命を失う者はそれを受ける .
26 よし全世界をもうけても,命を失えば何の役に立つだろう.また,人は命の代わりに何を与えられよう .
27 人の子は父の光栄のうちに天使たちとともに来て,その日各自の行いによって報いを与える .
28 まことに私は言う.ここにいる人のうちに,人の子がその王国とともに来るのを見るまで死なぬ者もいる 」.』
(注釈)
離脱 ( 16 ・24-28)
25 ギリシャ語のプシケは,ヘブライ語のネフェシュのことである.これには,魂,生命(せいめい),人格という三つの意味がある.
28 イエズスの最後の来臨のことではない.「ここにいる私の弟子のうち何人かは,悪の力に耐えるほどに強くなった私の教会(地上におけるキリストの可見的神秘体)を見るまで死なないであろう」(大聖グレゴリウス).はたして,エルサレム滅亡のころまだ生きている者がいた.
(聖書の引用を続けます)