エレイソン・コメンツ 第353回 (2014年4月19日)
「主なる神(しゅなる かみ)があなたに命じた(めいじた)ことを成し続け(なしつづけ)なさい.そうすれば,あなたは右(みぎ)へも左(ひだり)へも道を踏み外す(みちを ふみはずす)ことは ないでしょう.」( ” “Keep therefore and do the things which the Lord God hath commanded you: you shall not go aside neither to the right hand nor to the left.” ” )主たる神(しゅたる かみ)のこの教訓(きょうくん)はモーゼから古代イスラエル人に伝えられた(もーぜから こだい いすらえるじんに つたえられた)もので( “旧約聖書・第二法の書〈申命〉:第5章32節”〈 “Deut.V, 32” 〉)( “This instruction from the Lord God to be passed on by Moses to the Israelites (Deut.V, 32) …” )(訳注後記1),新約聖書の神の選民(しんやく せいしょの かみの せんみん)( “God’s Chosen People of the New Testament ” )にとっては確かに通用(たしかに つうよう)しますが( “新約聖書・使徒聖パウロのローマ人への書簡:第9章25-26節”〈 “Rom.
米国(べいこく) SSPX (聖ピオ十世会)の公式機関誌(こうしき きかんし)( “the Angelus” )の最新号(さいしんごう)に掲載された書簡(けいさい された しょかん)は道を踏み外して(みちを ふみ はずして)左へ寄り(ひだりへ より)すぎています. 私にはそのように見えます ( “Meanwhile, as it seems to me , a letter published in the latest issue of the Angelus, official magazine of the Society of St Pius X in the USA, goes astray to the left.” ).
第3に , SSPX は出来るだけ早期に(できるだけ そうきに)真の信仰の教理と実践(まことの しんこうの きょうりと じっせん)をローマ教皇庁に押し返(おしかえ)さなければなりません( ” Thirdly , the SSPX must give back to Rome as soon as possible the doctrine and practice of the true Faith.” ).だが,ローマ教皇庁が相変(あい かわ)わらず半分(はんぶん)モダニストのままなら,それを押し戻す(おし もどす)のは豚に真珠(ぶたに しんじゅ)を投げ与える(なげ あたえる)ようなものです( 新約聖書・マテオ聖福音書:第7章6節〈 “Mt.
他方(たほう),ミサ聖祭の典文(みさ せいさいの てんぶん)( “the Canon of the Mass” )で教皇の御名に触れる(きょうこうの みなに ふれる)ことを拒む(こばむ)司祭(しさい)は道を踏み外し(みちを ふみ はずし)右へ偏る危険(みぎへ かたよる きけん)があります. 私にはそう見えます ( “On the other hand, as it seems to me , a priest now refusing any longer to mention the Pope’s name in the Canon of the Mass is in danger of going astray to the right.” ).もし私がモダニズムは信仰に対し(しんこうに たいし)致命的な危険を持つ(ちめいてきな きけんを もつ)と見るなら( “If I see the deadly danger of modernism to the Faith, …” ),私はむろん歴代の公会議派教皇(れきだいの こうかいぎは きょうこう)たちが教会に膨大な客観的被害(きゃっかんてき ひがい)を与えたと見ます(あたえたと みます)( “… certainly I see the enormous objective damage done to the Church by Conciliar Popes.” ).だが,私は彼らの中(なか)にカトリック的な要素(かとりっくてきな ようそ)がまったく残って(のこって)いないと本心(ほんしん)から言える(いえる)でしょうか?( “But can I truthfully say that there is nothing at all still Catholic left in them ? ” ) たとえば, S 神父が言うように,教皇たちは善良な主観的意図(ぜんりょうな しゅかんてき いと)を最小限(さいしょうげん)は持ち続けて(もちつづけて)いるのではないでしょうか?( “For example, as Fr.
「物事が確かなら,結束を.物事が疑わしいなら,自由を.あらゆる事には,愛を」
(ものごとが たしか なら,けっそくを.ものごとが うたがわしい なら,じゆうを.あらゆる ことに あいを)(訳注後記8)
キリエ・エレイソン.
真の司祭(まことの しさい)たちは今日のローマ教皇庁(こんにちの ろーま きょうこうちょう)にベタベタすることも,教皇をミサ聖祭から締め出す(しめだす)こともすべきでない,と私は言います(わたしは いいます)
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リチャード・ウィリアムソン司教
第1パラグラフの訳注 :
訳注1:
“旧約聖書・ 第二法の書 (申命):第5章32節”( “Deut.V, 32” )
THE BOOK OF DEUTERONOMY V, 32 (英語)
LE DEUTÉRONOME V, 32 (仏語)
LIBER DEUTERONOMII V, 32 (ラテン語)
(33 節まで掲載)
『32 神なる主が命令されたように行うことを心がけよ.右にも左にもそれるな .
33 主が命令された道を完全に守れ.そうすれば生きながらえ, こ れから所有する地で 幸せな長い生活を送ることができるであろう .』
訳注2:
“新約聖書・ 使徒聖パウロのローマ人への書簡 :第9章25-26節”〈 “Rom.
『25 すでにホゼアの書に,「私は自分の民ではない者を私の民と呼び,愛されていない者を愛された者と呼ぶであろう .
26 〈あなたたちは私の民ではない〉と言われたその場所で,彼らは生きる神の子と呼ばれるであろう」とある .』
訳注3:
“ザカリアの書:第13章7節”〈 “Zech.
『* 剣よ,立って,私の牧者と,
私にくみしているものを攻めよ.
――万軍の主のお告げ――
牧者を殺せ,
そうすれば,羊は散る.
そのとき,私は,小さなものに向かって,手をのばす .』
訳注4:
・1917年5月13日,ポルトガルのファティマの3人の牧童に
聖母( Nossa Senhora de Fátima )がご出現になった際の預言による.
第2パラグラフの訳注 :
訳注5:
“Pascendi” について:
“近現代主義者たちの誤りについての教皇ピオ10世の回勅”
(きんげんだい しゅぎしゃたちの あやまりに ついての きょうこう ぴお じゅっせいの かいちょく)
(フルタイトル)
「* 主の羊の群れを養う - 近現代主義者たちの誤り(あやまり)について」
(しゅの ひつじの むれを やしなう - きんげんだい しゅぎしゃたちの あやまりに ついて)
* “Domini Gregis” 「主の羊の群れ」=カトリック教聖職者(司教・司祭)たちのこと.
(以上,原文・大意・意訳)
第3パラグラフの訳注 :
訳注6:
“新約聖書・ 聖マテオによる聖福音書 :第7章6節”〈 “Mt.
『 聖なるものを犬にやってはならぬ.真珠を豚に投げ与えてはならぬ.
そうすれば相手は足で踏みつけ,向き直ってあなたをかみ裂くであろう .』
訳注7:
“旧約聖書・ 脱出の書 (出エジプト) - 第二法の書 (申命)”
第5パラグラフの訳注 :
訳注8:
「物事が確かなら,結束を.物事が疑わしいなら,自由を.あらゆる事には,愛を」
について:
(意訳)
「物事が真実(=確か)であれば結束した状態が保てるが,
疑わしい部分が残っていると,人々は自由奔放〈勝手気まま〉な解釈に走り各々の迷信に従って振る舞い勝ちになる.」)
(ものごとが しんじつ(=たしか)であれば けっそくした じょうたいが たもてるが,
うたがわしい ぶぶんが のこっていると,ひとびとは じゆうほんぽう〈かってきまま〉な かいしゃくに はしり おのおのの めいしんに したがって ふるまいがちに なる.)
神の御言葉の参照:
旧約聖書・主のしもべの第四の歌( イザヤの書 :第52章13節 - 第53章12節)
(第53章6節)
『 私たちはみな,羊のようにさまよい,おのおの,自分の道を歩んでいたが,主はみなの罪を,*彼の上に負わせられた .』
*「彼」=救世主・神の御独り子イエズス・キリストを指す.
(預言者イザヤは「世の罪を除き給う(生贄〈いけにえ〉)たる神の子羊」となられた救世主・神の御独り子イエズス・キリストの受難を預言.)
訳注の追補を続けます.