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花々は教える

エレイソン・コメンツ 第258回 (2012年6月23日)

花々が語(かた)れるとすれば(「エレイソン・コメンツ第255回参照),時間の価値,神の正義,恩寵と自然の調和( “the value of time, the justice of God, the harmony of grace and nature” )などについて私たちに教えることができるでしょう.
たとえば,もし神が存在され,人がたとえ90年生きるにしてもその束の間(つかのま)の生涯(しょうがい)のあいだに過ごすすべての瞬間ごとに自(みずか)ら取った一つひとつの選択肢しだいで,その霊魂の行方(ゆくえ)が永遠に決まってしまうように神が仕向(しむ)けることが理不尽(りふじん)でないとすれば,その生涯のあらゆる瞬間に価値があるということ,そしてあらゆる瞬間に神が私たちに神と永遠に交(まじ)わるよう呼びかけられ(訳注・私たちの注意を喚起〈かんき〉され)(いつも同じ強さでそうされているとは限らないにしても)ということは理にかなったことです.だからこそ,神が花々や自ら創造されたほかのあらゆる贈り物を通して私たちに語りかけておられるはずだというのもうなずけます.なぜかといえば,現世で自分には愛すべきものや人などなにもないと正直に言える人がはたしているでしょうか?過激(猛烈)な「無神論者 “atheist” 」でさえも,たとえば,自分の好みの犬やタバコを持っているものです.そして犬やタバコの葉を創(つく)り出し,私たちの時代までそれを生き続けさせた(世の創造主たる)御方(“ And Who… ”)は誰でしょうか?

その「無神論者」は死の直前になっても自分は神から語りかけられたことなど一度もないと言い張るかもしれません.だが,死を迎(むか)えたとたんに,彼は(自分がまだ生きていたとき)目覚めているあいだあらゆる瞬間瞬間に,いつも神が身の回りの何らかの生き物を通して自分に呼びかけて(訳注・霊魂の関心を呼び覚まそうとして)おられた( “…for every moment of his waking life God has been appealing to him through some creature or other around him.” )ことを瞬時(しゅんじ)に理解する( “grasp in a flash” )でしょう.「もし私が,あなたが生涯を通していつも私を拒(こば)んできたことを,私の残りの生涯でことあるごとに咎(とが)めるとしたら,私は理不尽でしょうか?」と神は彼にお尋(たず)ねになるでしょう.そして「あなたが選んだものを持ちなさい.私から離れなさい」と,神は彼に告げるかもしれません(新約聖書・マテオ聖福音:第25章41節)(訳注後記).

これとは反対に,生涯のあらゆる瞬間を通していつも自分が楽しんできたあらゆる良いことの陰(かげ)に存在する偉大で善良な神を愛する恩恵を受けた人,( “…has profited by every moment of its life to love the great and good God behind all the good things it has enjoyed,…” ),さらに自分が楽しいと思わなかったあらゆる悪いことの陰に存在する(訳注・災難や苦難の起こることをあえて許可〈=承認,同意〉される)神意(=摂理,神の導き・思慮・配慮)にさえも気づいた( “…that has even recognized the permission of his Providence behind all the bad things it has not enjoyed.” )人のことを考えてみてください.それならば(=訳注・人生が瞬間から瞬間まですべて神意の下にあるものなら)誰が自分の人生に意味を与えるため,人に認めてもらいたい,有名になりたい,メディアの前に出たい,引出しを休暇の写真で埋め尽くしたいなどと望む必要があるでしょうか?過去の時代で,有能な人々が生涯にわたって神への愛にすっかりその身を捧(ささ)げるためその才能を人里を離れ世間から隔離(かくり)された修道院に埋(う)めたのもさして驚(おどろ)くことではありません.私たちの時間の一刻一刻には計りしれない価値があります.なぜなら,その一刻一刻に良かれ悪しかれ霊魂の計りしれない永遠性がかかっているからです.

さらに,花が話せるとすれば,私たちがもう一つよく知られた疑問を理解するのに役立ちます.その疑問とは,非カトリック教徒の人々の霊魂がカトリック教の布教者たち(=宣教師たち)と接する機会がまったくなかったために,カトリック信仰を持たなかったとしたら非難できるだろうか,というものです.人間的な言い方をするなら,花々を創造しカトリック教会を設立されたのはまさしく同一の神であることを思い起こせば,この疑問の少なくとも一部は解かれるかもしれません.神のお導き(=神慮〈しんりょ〉 “God’s Providence” )がカトリックの真理がある霊魂の耳に届くのを許さなかったとしても,その霊魂は真の神のことなど何も知らなかったとは言えません.その霊魂はたとえば(訳注・日々様々に移り変わる)無数の雲景(画),日の出,夕焼けの美しさ( “the beauty of cloudscapes, of sunrises and sunsets” )といった自らが知っていたものによって裁きを受けうるでしょう.それらの美しさを見て,その霊魂は異教徒ヨブ(旧約聖書・ヨブの書:19・25)と一緒になって「私は私の救い主が生きておられることを知る( “I know that my Redeemer liveth” )」と言ったでしょうか,それとも「ええまあ,そうですね,確かにすばらしい.でも,隣の奥さんを訪ねさせてくれ - 」と言ったでしょうか?(訳注後記)

実際のところ,人々が彼らの創造主たる神( “their Creator ”)に対して抱(いだ)く多くの不平不満はカトリック信徒たちでさえ感じています.カトリック信徒たちの多くは,現代のほかの人たち同様,都会やその郊外での生活によって多かれ少なかれ自然界から切り離されており,それ相応にその「精神性 “spirituality” 」が人工的になっているからです.どなたかが「動物一匹(いっぴき)愛したことがない人は可哀(かわい)そう」と言ったことがあります( ““Woe to anybody who has never loved an animal,” somebody has said.” ).子供たちは神と親密です.子供たちがいかに生まれながらにして動物たちが好きなことかを観察してください( “Children are close to God.

偉大にして善良なる神よ,あなたがあらゆるもの,あらゆる人の奥深くに,いつも(=絶えず)おられるのを私たちに見させ給え( “Great and good God, grant us to see you where you are, deep down everything and everybody, at every moment.” ).

キリエ・エレイソン.

英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教

第2パラグラフの訳注:
新約聖書・ マテオによる聖福音書:第25章41節(太字) .(25章全章を掲載)

十人の乙女のたとえ
『*¹天の国は,各自のともしびを持って,*²花婿(はなむこ)を迎(むか)えに出る十人の乙女(おとめ)にたとえてよい.

そのうちの五人は愚か者(おろかもの)で,五人は賢(かしこ)い.愚か者はともしびを持ったが油を持たず,賢いほうはともしびと一緒に器(うつわ)に入れた油も持っていた.花婿が遅かったので,一同は居眠(いねむ)りをし,やがて眠(ねむ)りこんでしまった.夜半(やはん)に,〈さあ,花婿だ.出迎(でむか)えよ〉と声がかかった.

乙女たちはみな起きて,ともしびをつけたが,愚かなほうは賢いほうに,〈油を分(わ)けてください.火が消えかかっていますので〉と言った.賢いほうは,〈私たちとあなたたちとのためには,おそらく足(た)りません.商人(しょうにん)のところへ行って買っていらっしゃい〉と答えた.彼女たちの買いに行っている間に花婿が来たので,用意していた乙女たちは一緒に宴席(えんせき)に入り,そして戸は閉ざされた.
やがて,ほかの乙女たちは帰ってきて,〈主よ,主よ,どうぞ開けてください〉と言ったけれど,〈まことに私は言う.私はおまえたちを知らぬ〉と答えられた.

*³警戒(けいかい)せよ,あなたたちはその日その時を知らない.』

(注釈)

十人の乙女のたとえ (25・1-13)
*¹ 1-13節 花婿はイエズス,乙女らは信者,ともしびは信仰,油は愛と善業,眠りはイエズス来臨(らいりん)までの期間,婚宴(こんえん)の席(せき)は天国である.その席からは信仰をもっていても愛と善業を行わなかった者が遠ざけられる.

*² ある写本(ブルガタ訳)には「花婿,花嫁」とある.のちの書き入れである.

*³ 花婿のキリストが遅くなることはあっても,信者の霊魂はこの世の生活の試練(しれん)の夜において,いつも警戒し続けなければならぬ.あるいは,弱さのために居眠りをすることがあっても,警戒のともしびをすぐともせるように準備していなくてはならぬ(ルカ12・35-38,13・25).

タレントのたとえ
『*¹また,天の国は遠(とお)くに旅立(たびた)つ人がしもべたちを呼び,*²自分の持ち物を預けるのにたとえてよい.

おのおの能力(のうりょく)に応じて,一人には五*³タレント,一人にはニタレント,一人には一タレントをわたして,その人は旅立った.
五タレントをわたされた人は,それを用いてもうけ,ほかに五タレントの収入(しゅうにゅう)を得(え),ニタレントをわたされた人も,同じようにほかにニタレントの収入を得たが,一タレントをわたされた人は,土地を掘(ほ)りに行き主人の金を埋(う)めておいた.

しばらく経(た)って主人が帰ってきてしもべたちと精算(せいさん)した.
五タレントを預かった人は別に五タレントを差し出し,〈主よ,私は五タレントを預かりましたが,ごらんください,ほかに五タレントをもうけました〉と言った.主人は,〈よしよし,忠実(ちゅうじつ)なよいしもべだ.おまえはわずかなものに忠実だったから,私は多くのものをまかせよう.おまえの主人の喜びに加われ〉と答えた.ニタレントを預かった人も来て,〈主よ,私はニタレントを預かりましたが,ごらんください,別にニタレントをもうけました〉と言った.主人は,〈よしよし,忠実なよいしもべだ.おまえはわずかなものに忠実だったから,私は多くのものをまかせよう.おまえの主人の喜びに加われ〉と答えた.

また一タレントを受けた人が来て,〈主よ,あなたは厳(きび)しい方で,まかない所から刈(か)り,散(ち)らさない所から集められると知っていた私は,恐(こわ)くてあなたのタレントを地下に隠(かく)しに行きました.あなたに預かったのはこれです〉と言った.
主人は答えた,〈悪い怠(なま)け者のしもべだ.おまえは私がまかない所から刈り取り散らさない所から集めると知っていたのか.それなら私の金を貯金(ちょきん)しておけばよかった.そうすれば私は帰ってきて自分のものと利子(りし)を手に入れたのに.さあ,彼からそのタレントを取り上げ,十タレントを持っている者にやれ.

*⁴持っている者は,与えられてなお多くのものを持ち,持たない者からは,持っているわずかなものさえ取り上げられる.この役たたずのしもべを外のやみに投げ出せ.そこには嘆(なげ)きと歯(は)ぎしりがあろう〉.』

(注釈)

タレントのたとえ (25・14-30)
*¹ 14-30節 旅立つ主人は,近く天国に行くイエズスであり,将来天国からまた最後の審判のために来るであろう.しもべはキリスト信者,タレントは神からの自然的・超自然的たまものを意味する.これを善業のために使わねばならぬ.

*² このたとえも,先のと同じく,キリスト信者の個人個人の最後をたとえている.

*³ 18・24の注参照.(注・18章24節の注から転載→「神殿ではユダヤの貨幣(かへい)だけが用(もち)いられていたが,その他のときにはギリシアやローマの貨幣も用いられた.ユダが裏切りのときに受けた銀貨はシェケル(一シェケル=四ドラクマ)である.
ギリシアの貨幣は、次のとおりである.オポロスはドラクマの六分の一,ディドラクマは二ドラクマである.スタテルは四ドラクマ(銀シェケルと同値)で,一般にもっとも広く用いられていた.ムナは一〇〇ドラクマ,タレントは六〇〇〇ドラクマである.タレントはまた目方でもあり,四二・五三三キロに相当する.
ローマ貨幣は,デナリオがギリシアのドラクマにあたり,アサリオンはデナリオの十分の一,コドラントはアサリオンの四分の一,レプタまたはミヌトゥム(ブルガタ訳)はコドラントの四分の一である.」)

*⁴ 神のたまものを有益に使う者は,その上にまたもらい,持っている少ないものをないがしろにする者は,それさえも失う(マテオ聖福音13・12).

最後の審判
『*¹人の子は,その栄光のうちに,多くの天使を引き連れて光栄の座につく.
そして,諸国(しょこく)の人々を前に集め,ちょうど牧者(ぼくしゃ)が羊(ひつじ)と雄(お)やぎを分けるように,羊を右に雄やぎを左におく.

そのとき*²王は右にいる人々に向かい,〈父に祝(しゅく)せられた者よ,来て,*³世の始めからあなたたちに備(そな)えられていた国を受けよ.あなたたちは,私が飢(う)えていたときに食べさせ,渇(かわ)いているときに飲(の)ませ,旅にいたときに宿(やど)らせ,裸(はだか)だったときに服(ふく)をくれ,病気だったときに見舞(みま)い,牢(ろう)にいたときに訪(おとず)れてくれた〉と言う.
すると義人(ぎじん)たちは答えて,〈主よ,いつ私たちはあなたの飢えているときに食べさせ,渇いているときに飲ませ,旅のときに宿らせ,裸のときに服をあげ,病気のときや牢に入られたときに見舞ったのでしょうか〉と言う.
*⁴王は答える,〈まことに私は言う.あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは,つまり私にしてくれたことである〉.

また王は左にいる人々に向かって言う,〈のろわれた者よ,私を離(はな)れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ .あなたたちは私が飢えていたのに食べさせず,渇いていたのに飲ませず,旅にあったときに宿らせず,裸だったのに服をくれず,病気のときや牢にいたときに見舞いに来なかった〉.
そのとき彼らは言う,〈主よ,あなたが飢え,渇き,旅に出,裸になり,病気になり,牢に入られたとき,いつ私たちが助けませんでしたか〉.
王は言う,〈まことに私は言う.これらの小さな人々の一人にしなかったことは,つまり私にしてくれなかったことだ〉.

そして,これらの人は永遠の刑罰を受け,義人は永遠の生命に入るであろう」.』

(注釈)

最後の審判 (25・31-46)
*¹ 審判(しんぱん)において,特に隣人(りんじん)への愛の実行が重視されている.この愛は,神に対する愛から出るものである.はたして,律法と預言者を,神と人間に対する愛に帰(き)する.

*² 王たるメシア(=救世主),キリストのこと.

*³ 神が人をつくられたのは,永遠の幸福のためである(〈新約〉エフェゾ人への手紙1・4).

*⁴ すべての人のうちにキリストを見るということは,確かにキリスト教の重大な教えの一つである.これによってすべての人,特に貧(まず)しい者は「聖なるもの」となる.
審判の時,愛以外の徳の実行を尋(たず)ねられるであろうが,貧しい人を助けることは,キリストを助けることだと心得(こころえ)るほどの愛をもつものは,この愛の中に他のすべての徳を含(ふく)んでいるはずである.

第4パラグラフの訳注:

① 旧約聖書・ヨブの書「解説」

② ヨブの書:19章25節(太字)

①「ヨブの書解説」( フェデリコ・バルバロ神父訳「旧約聖書」より)

主人公の名をとってヨブの書と称されるこの本は初めの2章と終わりのことばを除外すれば,全篇詩の形でなり立っている.ここで取り上げているのは人間の苦しみの問題であって,この問題を扱った詩としては世界でもっともすぐれたものの一つである.

正しい幸せな生活をおくっていたヨブの上に突如(とつじょ)として大きな不幸が襲(おそ)いかかった.これが全篇の論争の始まりである(1-3章).

ヨブの不幸を慰(なぐさ)めにきた三人の友人がいた.その三人が一人ずつ話しかけるたびにヨブがそれに答える.ただし三人めの場合は友人が話さずにヨブが長く話す(4-31章).この論争ののち,不意にエリフという男が口を入れる(32-37章).ついに嵐(あらし)の中から神自身が現れてヨブに話す(33章1節-42章6節).最後にヨブはその大きな不幸に耐えた報(むく)いを豊(ゆた)かに受けたことが語られる.

論争した人々の態度は次のようである.三人の友人は「善悪はこの世で報いを受ける」という古来の教えを守っているヨブが不幸になったのは,何かの悪事をしたからであると推理する.自分では正しいと思っていても神の目にとって正しくなかったのかもしれない.ヨブが「私は正しい生活をした」と主張するので,三人はいよいよかたくなに自分のいい分を守る.
ヨブは三人のいい分に対して,自分自身の苦しみとこの世にあふれている不正をもって答える.しがしこのことを語るたびに,「正義の神がなぜ正しい人を苦しめられるのか」という疑問につき当たる.

エリフは,「神に対していい過ぎた」とヨブを非難してのち,三人の友人をも非難する.そして,神の行為を弁護して,「苦しみは人にとって教えであり薬である」と述べる.

次に神が話されるがヨブに直接答えず,宇宙の不思議を語って神の偉大さを示し,人間には無限の知恵である神と相対する権利のないことを教える.

ついにヨブは自分の無思慮(むしりょ)を認める.

この本の主人公ヨブは太祖(たいそ)のころの人(〈旧約〉エゼキエルの書14・14,20)で,アラピアとエドムの国境の地に住んでいたと思われる.
ユダヤの伝統では試練の中で神への忠実を保った人としてヨブを尊(とうと)んでいる.この本の作者はそういう古い話からこの一篇の詩を創(つく)ったのであろう.

作者の名は不詳(ふしょう)である.確実なのは,預言書と知恵の書をよく学んだユダヤ人だということだけである.この人はパレスチナに住んでいたのだろうが,特にエジプトをよく知っていたようである.

この本はエレミアの書,エゼキエルの書より後に出たもので,表現と思想の上でその二つに似たところがある.おそらくは西暦前五世紀ごろの作であろう.

作者がいおうとするのは,「正しい人の苦しみ」である.これは「人はその行いの善悪によって,この世で良いあるいは悪い報いを受ける」というユダヤ古来の考え方からは矛盾(むじゅん)しているようであるが,ヨブは,「正しい生活をしていても災難(さいなん)を受ける」という.読者は序文によって,ヨブの災難が神からではなくサタンからのもので,神への忠実に対する試練であることを知っている.しかしヨブもその友人もこのことは知らない.

ヨブは苦しみのなかにあっても,神は慈悲(じひ)であり正義であるという希望にすがりついている.神が干渉されたのは人知を絶するみずからの計画を示し,ヨブを沈黙(ちんもく)させるためである.

この本の宗教的な教えとは,『 霊魂はどんなやみの中にあっても,神への信頼と信仰を持ち続けよ 』ということである.

天の示しも不完全であったこの時代の作者としてはこれ以上いえなかっただろう.「罪のない者が苦しむ」という神秘を照らすには来世の賞罰(しょうばつ)の確証がいる.そしてまたキリストの苦しみと合わせて苦しむ,人間の苦しみの価値を知る必要もある.

ヨブの切なる疑問に答えるのは聖パウロの書であろう.

「今のときの苦しみはわれわれに現れる光栄とは比較にならないと私は思う」(〈新約〉ローマ人への手紙8・18).

「私は今,あなたたちのために受けた苦しみを喜び,キリストの体なる教会のために私の体をもってキリストの御苦しみの欠けたところを満たそうとする」(コロサイ人への手紙1・24).

② ヨブの書:第19章(全章)/ THE BOOK OF JOB, CHAPTER XIX

ヨブは答えて言った,

「いつまで私の魂(たましい)を苦しめ,
その話で私を押しつぶすのか.

あなたたちはもう十度も私を侮辱(ぶじょく)し,
恥知(はじし)らずにも私を責(せ)めている.

あやまったのがたとえ事実(じじつ)でも,
また私がかたくなに迷(まよ)いにとどまっても,

あなたたちが勝(か)って,
私に罪があると証明(しょうめい)できたとしても,

*私をおさえつけ,
網(あみ)で私をとりまいたのは神であると知れ.

〈これは暴力(ぼうりょく)だ〉と叫(さけ)んでも答えはなく,
呼びかけても正義はこない.

神が小道をふさがれたので,私は通れない,
神は私の道に闇(やみ)をおき,

光栄をはぎとり,
頭の冠(かんむり)を奪(うば)われた.

神が四方から壊(こわ)されたので、私は滅(ほろ)びる.
神は私の希望を木のように引き抜(ぬ)き,

その怒りは私に向かって燃えあがり,
私を敵(てき)のようにみなされた.

神の軍は押しよせ,
私に向かって進路(しんろ)を開き,
私の幕屋(まくや)のまわりに陣(じん)を張(は)った.

私は兄弟たちののけ者となり,
知人たちも私にとって見知らぬ人となった.

親戚(しんせき)と親しい人々は姿(すがた)を消(け)し,
家の者は私を忘れ,

下女(げじょ)は私を他人のように思う.
私は彼らにとって赤の他人になった.

下男(げなん)を呼んでも答えないので,
私はこの口で彼にこいねがわねばならぬ.

私の息は妻にいとわれ,
兄弟たちもそのにおいに顔を背(そむ)け,

小さな子らも侮(あなど)り,
立ち上がると私をからかう.

親(した)しい者はみな私を忌(い)みきらい,
愛する者は逆(さか)らった.

この皮膚(ひふ)の下で肉は腐(くさ)り,
骨は歯のようにむき出しになった.

あわれんでくれ,あわれんでくれ,ああ,友よ.
神の御手(おんて)が私を打(う)ったのだ。

なぜ,あなたたちも神がなさるように,私を責(せ)めるのか.
私の肉にまだ飽(あ)き足らずに.

ああ,私のことばを書きとめ,
書物に刻(きざ)んでくれ,

鉄(てつ)ののみと鉛(なまり)で,
永久(えいきゅう)に岩(いわ)に刻みつけてくれ.

〈* 私を守るものは生きておられ,
仇討(あだう)つものはちりの上に立ち上がるのだと私は知る .

皮膚がこのようにきれぎれになっても,
私はこの肉で神をながめるだろう〉.

ああ,幸せな私よ,この私自身が,他人ではなく私自身の目で見るだろう.
腎(じん)は絶(た)えなんばかりにあこがれる.

あなたたちが〈彼をいじめてやろう〉〈あの*ことの根を見つけ出そう〉と叫ぶとき,

そのときこそ、自分の身に下る剣(つるぎ)を恐(おそ)れよ,
それは剣を受けるべき罪なのだ.
そしてあなたたちは〈さばく者〉のあることを知るだろう」.

(注釈)

神と人に捨てられても保ったヨブの信仰 (19・1-29)
6 ヨブは友人のいったことを結論する,「もしあなたたちのいったことが本当だとしたら,この場合神は私に対して不正を行われたことになる.私は自分に罪のないことをよく知っているのだから.あなたたちのいうことを認めたら神は不正だと結論せざるをえなくなるから,それは認められない」.ヒエロニムスとトマス・アクィナスもこの解釈をとった.

25-26 この2節はヨブが岩に刻みつけたいと願うことばで,教義上たいへん大切な箇所であると同時にいろいろ議論されている.訳も多いが,本訳はほとんどヘブライ語本のままである.
この訳では次のような意味になる,「私を守るものはいま姿を見せては下さらぬが,たえず生きておられ正義を証(あかし)するものとして,私の墓(はか)にこられるだろうと私は信じる(25節).私の体が分解しつくしても,なおかつ私はこの体をもって神を眺めるにちがいない(26節)」.
昔のラテン教会教父たちはこのことばを「肉身(にくしん)のよみがえり」の意味にとった.しかし東方教会の教父たちはその意味でほとんど引用していない.それは彼らの用いていた七十人訳ギリシア語本が不十分な訳だったからである.現代のカトリック聖書学者も,「肉身のよみがえり」についてのヨブの信仰を示すものかどうか断定(だんてい)するのをはばかっている.これは「肉身のよみがえり」についての霊的なひらめきだったろうか,あるいはそれの明白な示しの前奏曲であったかもしれない(〈旧約〉マカバイの書下7・9).
ただ,このことばが復活を暗示しているという説に対していいたいのはもしヨブがそれを信じていたとしたら,はじめから友人たちをいい伏(ふ)せることができたろうと思われる.

28 ヘブライ語では「ことば」.ヨブを襲(おそ)った不幸のこと.ヨブが不幸になったのはヨブ自身罪を隠(かく)しているからだと友人たちは考えていた.