エレイソン・コメンツ 第196回 (2011年4月16日)
およそ2万7千人の人々が死亡したと推定される日本での最近の平時大災害が天災ではなく人災だったといううわさが出るほど深刻な世界の状況下で (インターネットで HAARP tsunami を検索してみて下さい),ひとりのカトリック信徒が自分の霊魂を救うために何ができるでしょうか? 実際には信徒にできることはそう多くはないかもしれません.だが,少なくとも警戒し用意をして目を覚まし続けていることはできるでしょう.
祈りを前にしている時でさえ警戒して見守っている,言い換えれば私たちの目を開けたまま眠りに落ちないように保っているのは,ゲッセマニの園における私たちの主イエズス・キリストなのです (マテオ26・41).その理由は明らかです.もし,キリストの弟子ペトロ,ヤコブやヨハネのように,私が目覚めて用心するのを怠(おこた)れば (マテオ26・43),おそらく,彼ら弟子たちがそうだったのと同じように,目覚めて警戒し続けていることを私たちの主が最も必要としている時に,私は祈るのを中断することになってしまうでしょう.1950年代,1960年代にどれほど多くのカトリック信徒たち,とりわけ聖職者たちが,カトリック教会 および 世界における時代のすう勢に注意を怠(おこた)り,そのため第二バチカン公会議によって完全に不意を突かれてしまったことでしょうか? だからこそ「エレイソン・コメンツ」は,かつて「神学校長からの書簡」がしていたように,絶えず経済や政治の話題を持ち出して,カトリック信徒たちが自らの 宗教 と,それが与える約束よりはるかに重い要求にたえず目を覚ましているようにしているのです (コリント〈第一〉2・9).(訳注後記)
かくして,ウォール・ストリート (ウォール街) “Wall Street” の専門家 (2011年3月30日付の JSmineset.com をご参照下さい) は,「金融システムは大失敗してめちゃくちゃになりもはや修復不能となりました.加えて,利口な連中は修復が不可能なことを知っているので何も修復できる望みはないのです.それがリーマンの洗浄 ( “the flushing of Lehman” ) が創り出した世界なのです.それは素晴らしい新世界 ( “a brave new world” ) ではありません」と言うでしょう…その専門家ジム・シンクレア氏 “Jim Sinclair” は,人が「おかしな通貨」 ( “funny money” ) と呼ぶようなものをどれだけ多く各国の中央銀行が造出したかはどうでもいいことだ,と言っています…「今となっては後の祭りで,もはや解決策は何もありません… どうぞ現実的に自力本願でやってください ( “ please get physically self-reliant ” )」と. (下線は私が付しました).
それでもなお,伝統派カトリック信徒たちでさえ,眠り込んでいるとは言わないまでも,うたた寝する気にさせられています.二つの最近の証言をここにご紹介します.最初は伝統的カトリック教の学校の教師によるものです:– 「私はこの戦いで恐ろしいほどの孤独を感じています.外部の敵との戦いではなく,聖ピオ十世会の内部での戦いです.この戦いは,誰一人そのことに気付かないほど巧妙に行われています. それはまさに1960年代の主流派教会で起きたと同じように ,ゆっくりと緩(ゆる)やかに振る舞い方に変化が起きているのです.」
二つ目は今日のアメリカ合衆国における伝統派カトリック教会の現場でのある内部観察者からのものです:– 「私にはカトリック教的闘争心が衰退しているように見えます.世の中のやり方 ( “the ways of the world” ) を受け入れている大勢の伝統派カトリック信徒たち,とりわけ家族の父親たちを私は目にします.(訳注・伝統派カトリック教徒としてのこの世との)戦いはもはや彼らにとって重要ではないのです.彼らは毎週日曜日に自分たちの美しいミサに与(あずか)れることに満足していますが,月曜日には子供たちを公立学校へ送り出します.毎年11月には彼らは出かけていき,二人の悪魔たちのうちより悪くない方に投票し,(保守派の?)フォックス・ニュース ( “Fox News” )を見て,(保守派の?)共和党 ( “Republican Party” ) こそが世界の諸問題のすべてに対する答えであると宣言します.(訳注・これら二つの取る姿勢や行動が伝統的カトリック教義から見て真の保守派(真に保守的)だと言えるでしょうか?) 私に言わせていただければ,このような闘争心の欠如は今や伝統派カトリック教の世界にどんどんまん延しています.私たち (信徒) は第二バチカン公会議に導かれたときと同じ一連の状況に再び戻りつつあるのでしょうか? 日曜日のミサ聖祭だけという名ばかりのカトリック教( “the Sunday Catholic” )が現在では伝統的カトリック教回帰運動における圧倒的大多数なのでしょうか? 残念ながらこの二つの疑問に対する答えはいずれも,然(しか)り,ということかもしれません.」(訳注後記)
だが今日の時代の流れに逆らって泳ぐのをあきらめる方がずっとたやすいことではないでしょうか? 眠りの腕の中に陥る方がずっと心地よいのではないでしょうか? 私たちにできる極(ごく)わずかなことは目の前のテレビを投げ捨てることです.
キリエ・エレイソン.
英国ロンドンにて.
リチャード・ウィリアムソン司教
第2パラグラフの聖書の引用箇所についての訳注:
①マテオ聖福音書・第26章41,43節(太字+下線部分).36-56節を記載.
『さて,イエズスは弟子たちとともに*¹ゲッセマニというところに行き,弟子たちに,「私があそこへ行って祈る間,あなたたちはここに座っておれ」と言われ,ペトロとゼベデオの二人の子を連れてそこに行き,*²憂い悲しみに捕らわれだし,「私の魂は死なんばかりに悲しむ.あなたたちはここにいて,私とともに目を覚ましていてくれ」と言われ,少し進んでひれ伏し,「*³ 父よ,できればこの杯(さかずき)を私から取り去りたまえ.けれども私の思うままではなく,み旨のままに 」と祈られた.
それから,弟子たちのところに帰ってこられると,彼らが眠っているのを見,「そんなふうにしてあなたたちは,一時間さえ私とともに目を覚ましていられなかったのか. 誘惑に陥らぬよう目を覚まして祈れ .心は熱しても肉体は弱いものだ」とペトロに言われ,ふたたび行って,「父よ,この杯を私が飲まずには過ごせぬものなら,なにとぞみ旨のままに」と祈られた.
それからまた帰ってきて,弟子たちが眠っているのを見られた.弟子たちの目は重くなっていた .
また彼らを離れ,三度同じことばで祈ってから,弟子たちのところに来て,「もう眠って休むがよい.人の子が罪人の手にわたされる時は近づいた.さあ立って行こう.見よ,私を裏切る男は近づいた」と言われた.
また話しておられると,十二人の弟子の一人のユダが来た.司祭長たちや民の長老たちから送られた多くの人々も,剣と棒を持ってついてきていた.
裏切り者(ユダ)は「私がくちづけするのがその人だから,それを捕らえよ」と合図してあったので,すぐイエズスに近寄り,「ラビ,*⁴あいさつ申し上げます」と言ってくちづけした.イエズスは「友よ,*⁵あなたがしに来たことをせよ」と言われた.
人々は進み出てイエズスに手をかけて捕らえた.すると,*⁶イエズスとともにいた一人が剣(けん)に手をかけて抜き放ち,大司祭の下男に打ちかかり,その耳を斬(き)り落とした.
そのときイエズスは言われた,「剣をもとに納めよ,剣をとる者は剣で滅びる.私が父に頼めば,今すぐ十二軍にもあまる天使たちを送られることを知らないのか. だがそうすれば,こうなるであろうと書かれている聖書がどうして実現しよう 」.
それから人々のほうを向き,「あなたたちは強盗に立ち向かうように,剣と棒を持って私を捕らえに来たのか.私は毎日神殿に座って教えていたのに,今まで捕らえようとしなかった. だがこうなるのはすべて預言者の書を実現するためである 」と言われた.
そのとき弟子たちはみなイエズスを捨てて逃げ去った.』
(注釈)
*¹「ゲッセマニ」とは油絞りの道具の意味である.オリーブ山の西側の畑であった.
*²人間としてのイエズスは,自分が今からあがなおうとする罪の醜悪さを見,近い受難を考えて悲しんだ.
*³ 苦しみからの解放を神に祈るのは,悪いことではない.しかし常に「神のみ旨のままに」と言わねばならぬ .
*⁴ギリシア語の「カイレ」.喜べの意味であって,今の日本語の「ごきげんよう」にあたるだろう.
*⁵「なぜここに来たのか」「ここに何しに来たか」という訳もあるが,この訳の方が原文に近いように思われる.
*⁶剣を抜いたのはペトロである(ヨハネ聖福音18章10節参照).
②使徒聖パウロのコリント人への第一の手紙:第2章9節
『 書き記されているとおり,「*目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心にまだ思い浮かばず,神がご自分を愛する人々のために準備された」ことを私たちは告げるのである .』
(注釈)
*旧約聖書・イザヤの書:第64章3節参照.(太字・下線部分)
第64章全章を記載.
『水が,火でつきはてるように,
火は敵を滅ぼし尽くすがよい.
そして,敵の間に(主の)み名は知られ,
もろもろの民はみ前でおののくのだ.
私たちの思いもよらぬ恐ろしいことを
主は果たされた.
そのことについては,昔から話を聞いたこともない.
あなた以外の神が,
自分によりたのむ者のために,これほどのことをされたと,
耳に聞いたこともなく,目で見たこともない .
主は正義を行い,道を思い出す人々を迎えられる.
見よ,主は怒られたが,私たちは罪を犯し,
ずっと以前から主に逆らい,
みな汚れた者となり,
正義の行いも,汚れた布のようだった.
みな,木の葉のようにしぼみ,
風のように悪に運び去られた.
だれも,み名をこいねがわず,
めざめて,よりすがろうとしなかった .
それは,主がみ顔を隠(かく)し,
罪におちる私たちを見すごされたからだ.
それでも,主は私たちの父,
粘土(ねんど)である私たちを
形づくられたのは主だった.
私たちはみな,御手によってつくられた.
主よ,ふたたび怒りたもうことなく,
いつまでも罪を思いださず,
私たちを見て下りたまえ.
私たちはあなたの民である .
主の町々は荒れ,
シオンは荒れ地となり,
エルサレムはみじめになった.
先祖が主をたたえた,
あの高貴壮麗な神殿は
火のえじきとなり,
貴重なものはみな壊された.
主よ,これらのことに
冷淡であられるのですか.
私たちをかぎりなく辱(はずかし)めるために
黙したもうのですか.
→詩篇(第63篇7節-64篇11節)
第5パラグラフの訳注:
(伝統派カトリック信徒としての) 世の中のやり方との「戦い」 についての解説
・神の御子,救世主であるイエズス・キリストの福音(真の神のみ教え)によれば,有限なこの世(=現世.地上の生物はいつか必ず肉体の死を迎える)は悪魔の支配下にあり, その特徴はまず我欲の満足の追求を基本としそこから全ての利己的な生活が始まるところにある .
・諸悪の配下にあるこの世のやり方に調子を合わせて生きようとする者はみな,キリストの神の敵となる.
なぜなら,万物の創造主たる神は無限の愛・善であられ, その愛は人の罪の贖(あがな)いのため人となってこの世に来られた神の最愛の御子キリストの自己犠牲的な十字架上の死によって証明されている からである.
すなわち,神の愛・永遠の命は 自己を犠牲にして他者を愛する ことによって証明されるのであり,霊においてかような神の自己犠牲の愛において生きていない人は,肉体が滅びた時にその人の霊魂も滅びる.
利己主義に生きる者は神の敵,神の愛と正義を信じる者の敵となり,この世で儚(はかな)い人生を悪い心がけで生きて終わればその者の霊魂は永遠に滅びることになる.
・真の神を信仰し神に従う生活をしない者はみな,たとえ悪意のないつもりでも無意識にこの世の調子に組み込まれ,この世においても苦悩が伴い,肉体が滅びた後も残る不滅の霊魂の永遠の滅びへと向かいやすくなる.
その誤った道をそのまま先へ行けば行くほど,矯正困難になりやすい(眠っており,無警戒で目覚めていない状態).真に生きるため誘惑に陥らないよう常に警戒して悪を避けることが大事である(目覚めている状態).人間を裁いて滅びに至らせるのはキリスト(神)ではなく人間自身の罪(=神の愛に背くこと)だからである.
・この世のやり方は明白に神のおきて(①神を愛し②隣人を自分同様に愛するという愛徳のおきて)に反する理由で,神の敵である.人間にとり神の敵となることは究極的に自滅することを意味する.
・我欲は神の家たるべき教会の中にもまん延している.個人的に霊魂の救いを得るためカトリック信者は,美しさ(美しい聖堂,ミサ聖祭,聖歌・教会音楽などの心地よさ)や権威・地位・立場の裏に隠れているかもしれない利己主義(我欲)を自分の心の中に見抜き,徹底して謙遜にそれと闘う覚悟が必要である(警戒し目覚めて用意している状態).
・ キリスト信者が最も警戒すべき悪徳は「妬(ねた)み(=嫉妬心)」の罪である .
なぜなら,悪魔(元は神に創造された神の天使だった)はごう慢になり神を妬み,神と同じかそれ以上の存在になろうとしために天から地に落とされ,地上で神の御子キリストを十字架につけたからである.
同じように兄弟たるべき善人の善を憎みまた妬む者は,神に対し最も重い罪を犯していることになる.それはキリストを十字架につけたのも同然の行為だからである(→カインとアベルの例.兄のカインは善良な弟アベルを憎んで殺した).
・ 身につけるべき最も大切な徳は「謙遜(けんそん)の徳」 で,まず第一にこの徳を神に願い求めなければならない.
・「 神と隣人を愛する 」ということは神に愛されている自分自身を犠牲として差し出すこと,「 悪と戦う 」ということはよく堅忍して自分自身の悪への傾向(罪)と闘うことである.
(神の御母の取り次ぎを願う)
神のみことばを聞きそれをお守りになった聖母マリアに倣(なら)い,聖母の取り次ぎによって神の恩寵に自分のすべての生活を委ねることが大切です.
・ルカによる聖福音書:第11章27,28節
(幸い)
『(イエズスが)これらのことを話しておられると,群衆の中からある女が,「幸せなこと,あなたを宿した母,あなたが吸った乳房は」と叫んだ.
*¹しかしイエズスは,「 幸せなのはむしろ,神のみことばを聞いてそれを守る人だ 」と言われた.』
(注釈)
*¹(28節)神の国では,イエズスの血縁よりも神の思召しを果たした人の方が尊いとされる.
マリアの偉大さは,神の母としてはもちろんであるが,謙遜なはしためとして神の思召しを果たしたところにある .
・ルカ聖福音書:第1章26-38節 (受胎告知の場面〈38節〉)
(マリアへの告げ)
『その六か月めに,天使ガブリエルは,ガリラヤのナザレトという町の,ダビド家のヨゼフといいなづけである*¹マリアという乙女のもとに,神から遣わされた.
天使はマリアのところに来て,「 あなたにあいさつします,*²恩寵に満ちたお方.主はあなたとともにおいでになります.(*³あなたは女の中で祝福された方です) 」と言ったので,マリアはこれを聞いて心乱れ,何のあいさつだろうと考えていると,天使は,「恐れるな,マリア.あなたは神のみ前に恩寵を得た.あなたは身ごもって子を生む.その子をイエズスと名づけなさい.それは偉大な方で,いと高きものの子と言われます.また,その子は主なる神によって父ダビドの王座を与えられ,永遠にヤコブの家を治め,その国は終ることがない」と言った.
マリアは「*⁴私は男を知りませんがどうしてそうなるのですか」と聞いた.
天使は答えた,「 聖霊があなたにくだり,いと高きものの力の影があなたを覆(おお)うのです.ですから,生まれる子は聖なるお方で,神の子と言われます .あなたの親族のエリザベトも,老人ながら身ごもったではありませんか.うまずめと言われた人なのに,もう六か月めです.神にはできないことはありません」.
マリアは,「 私は主のはしためです.あなたのみことばのとおりになりますように 」と答えた .そして天使は去った.』
(注釈)
*¹ マリアの名は「王妃」あるいは「神に愛せられた者」の意味である .
*²「恩寵に満ちた」すなわちギリシア語の「ケカリトメネ」をこの文ではマリアの名の代わりに用いている.
文字通り訳せば マリアは恩寵に満たされ,そうして恩寵を失わない者である .
したがってブルガタをはじめ昔からの訳はすべて「恩寵に満ちた者」と訳している.
(恩寵に満たされたところに罪の入り込む余地は全くない→マリアは「無原罪の御宿り」)
*³42節(に出てくる,マリアに対するエリザベトの同じことば)によるあとの書き入れである.
*⁴マリアは天使のことばを疑わないが,いつまでも処女を守るつもりであるから,どうして母になれるのかと尋(たず)ねる.原文には「私は男を知らないのに」とあるが,これは,今のことばで言えば,「私はいつまでも処女を守りたいのに」と訳してよい.
(第2パラグラフの引用聖書の追加)
新約聖書・使徒パウロによるコリント人への手紙:第1章,第2章を掲載.
第1章
(あいさつ)
神のみ旨によってイエズス・キリストの使徒となるために召されたパウロと,兄弟*¹ソステネより,コリントにある神の教会に,すなわちイエズス・キリストにおいて聖とされ聖徳に召されたあなたたち,ならびに*²どこにおいても私たちのいや私たちと彼らの主イエズス・キリストのみ名をこいねがう人々に.父なる神と主イエズス・キリストが恩寵と平和とを与えたもうように.
(感謝)
あなたたちがキリスト・イエズスにおいて賜わった神の恩寵のために,私は絶えず神に感謝している.あなたたちはキリストにおいて,すべてのこと,つまり*³すべてのことばと知識に富んだ者となったからである.あなたたちの中に,それほど*⁴キリストの証明は固められた.こうしてあなたたちは*⁵霊的な賜(たまもの)にも欠けることなく,*⁶主イエズス・キリストの現れを待っている.*⁷主イエズス・キリストの日に咎(とが)なき者とするために,主はあなたたちを終りまで固め守られるだろう.み子,主イエズス・キリストにあずからせるために,あなたたちを召された神こそ真実である.
兄弟たちよ,主イエズス・キリストのみ名によって私はあなたたちに切に勧める.
みな同じことを語り,互いに分裂せず,同じ心,同じ考えをもって完全に一致せよ .
兄弟たちよ,実は私は,*⁸クロエの人々からあなたたちの間に争いがあると聞いた.あなたたちは,「私はパウロ方(かた)のものだ」「私は*⁹アポロ方の」「私はケファ(ペトロ)方の」「私は*¹⁰キリスト方の」と言っているそうである.
キリストは分けられているのか.あなたたちのために十字架につけられたのはパウロか.あなたたちはパウロの名によって洗礼を受けたのか.
*¹¹クリスポとガイオとのほかに,私はあなたたちのだれにも洗礼を授けなかったことを神に感謝している.私の名で洗礼を受けたと言える者はあるまい.そうそう*¹²ステファナの家の人にも洗礼を授けた.そのほかの人に洗礼を授けた覚えはない.
(注釈)
*¹ソステネは使徒行録(18・17)の人とは違うらしい.
*²コリント人の狭量な党派心に対し, 教会の普遍性 を暗示する.
*³聖霊の特能.
*⁴パウロの宣教中に起こった奇跡と聖霊のみ業を暗示する.
*⁵ギリシア語の「カリスマ」(特能).ここでは,一般の霊的な賜のこと(2・4,コリント〈第二〉12・12,ローマ15.18-19).
*⁶世の終わりの時の来臨.
*⁷来臨の日(3・13,4・5).
*⁸ここだけに出てくるが,大商人の夫人の一家らしい.商売のために常にエフェゾと連絡していた.
*⁹使徒18・24-28参照.
*¹⁰「キリスト方の」者というのは地上に生きていた時のキリストを見た人々であろう.(使徒1・21,10・41).あるいは人間の介在なしに直接キリストの恵みを受けていると称していた人々かもしれない.
*¹¹使徒18・8,ローマ16・23参照.
*¹²16・15参照.
(キリスト教の知恵について)
キリストが私を遣わされたのは,洗礼を授けるためではなく福音を告げるためである.
それは,*¹ことばの知恵によるのではなく,キリストの十字架の効果をむなしくしないためである.
実に, 十字架のことばは滅びる者には愚かであるが,救われる者私たちにとっては神の力である .
「*²私は知恵者の知恵を滅ぼし,賢者の賢さをむなしくする」と書かれている.*³知恵者はどこにいるのか.学者はどこにいるのか.この世の論者はどこにいるのか.神はこの世の知恵がどんなに愚かであるかを示されたではないか.
この世は自分の知恵に頼み,*⁴神の知恵の業において神を認めなかったから,神は宣教の愚かさをもって信じる者を救おうと思召(おぼしめ)した.
*⁵ユダヤ人は奇跡を求め,ギリシア人は知恵を求めている.
ところが私たちは,十字架につけられたキリストを宣べ伝える.
それはユダヤ人にとってつまずきであり,異邦人にとって愚かであるが,*⁶召された人々にとっては,ユダヤ人にもギリシア人にも,神の力であり神の知恵キリストである.
神の愚かさは人間よりも賢く,神の弱さは人間よりも強いものだからである .
兄弟たちよ,あなたたちの間で,*⁷召された人たちを考えてみるがよい.
人間的に言えば知恵者は多くはない,有力者も多くはない,身分の高い人も多くはない.
しかし神は知恵者を辱(はずかし)めるために世の愚かな者を選び,強い者を辱しめるために世の弱い者を選ばれた.
神は,あると誇る者を空(むな)しくするために世の卑(いや)しい者,軽んぜられた者,この無(な)きに等しい者を選ばれた.
神の前で*⁸だれにも誇らせないためである .
あなたたちは神によってキリスト・イエズスに在(あ)る.
キリストは私たちにとって,神の知恵と正義と聖とあがないになられた.
聖書にあるとおり,「*⁹誇る者は主において誇る」ためである .
(注釈)
*¹パウロの宣教は哲学や修辞学によるものではない.
*²〈旧約〉イザヤの書29・14参照.
*³ 教会はこの三種の人を必要としない .
*⁴ 神のみ業を見て神を認めなかった (ローマ1・19-20).
*⁵ヨハネ聖福音4・28,6・30参照.
*⁶ユダヤ人は,ナザレトの柔和なイエズスではなく,全世界に君臨する勝利のキリストを待っていた.
異邦人は,十字架上に死んだ「知られざる人」を礼拝することを,狂気の沙汰だと思った.
*⁷いくらか皮肉なことばである.コリントの信者には身分の低い人が多かった.
*⁸原文,「すべての肉」.
*⁹〈旧約〉エレミアの書9・22-24参照.
第2章
(まことの知恵は福音にある) (2・1-16)
兄弟たちよ,私はあなたたちのところに行って*¹神の証明を告げたが,それは巧みなことばと知恵によってではなかった.私はあなたたちの中にあって,イエズス・キリスト,十字架につけられたイエズス・キリストのほかには何も知るまいと決心したからである.
*²むしろ私は弱々しく,恐れ震えながら,あなたたちの前に現れた.私のことばと宣教は人を屈服させる知恵の雄弁ではなく,霊と力の表れであった.
それは, あなたたちの信仰を人間の知恵ではなく神の力の上に基づかせるためであった .
*³完成した人の間では私たちも知恵を話しているが,それはこの世の知恵ではなく,滅ぶべきこの世の支配者たちの知恵でもない.
私たちの語るのは*⁴神の知恵である.それは神秘な隠された知恵であって,私たちの光栄のために,この世の始まる前から神が予定されていたものである.*⁵ この世の支配者 はだれもそれを知らなかった.もし知っていたら,光栄の主を十字架につけなかっただろう.
書き記されているとおり,「*⁶目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心にまだ思い浮ばず,神がご自分を愛する人々のために準備された」ことを私たちは告げるのである.神はそれを霊によって私たちに示された.霊は神の*⁷深みまですべてを見通すからである .
人間の中にある霊のほかだれが*⁸人間のことを知っていようか.同様に神の霊のほかにはだれも神のことを知ることはできぬ.神の下された恵みを知るために,私たちは*⁸世の霊ではなく神から出る霊を受けた.私たちがそれについて語るのは,*⁸人間の知恵が教えたことばによってではなく,霊が教えたことばによる.霊のことは霊のことばで表すものである.
*⁹動物的な人間は神の霊のことを受け入れぬ.その人にとっては愚かなことに思えるので理解することができぬ.なぜなら霊のことは霊によって判断すべきものだからである.
それに反して,*¹⁰霊的な人はすべてを判断し,自身はだれからも是非されることはない.
*¹¹だれが主に教えるほど主の思いを知っているだろうか.しかし, 私たちはキリストの思いを有している .
(注釈)
*¹神がイエズスの使命に与えられた証明.
*²アテネ(〈新約〉使徒17・16-34)の宣教で効果がなかったから,コリントに着いたときのパウロはいくらか不安であったろう.
*³キリスト教的生活に固められた人々(〈新約〉ヘブライ5・12-14).
*⁴キリストの奥義の知恵(〈新約〉コロサイ1・26-27,ローマ16・25-26).
*⁵衆議会員,ピラトなどを主として暗示する. 政界,学界,団体などのかしら,あるいは悪魔のかしら .
*⁶〈旧約〉イザヤの書64・3参照.
*⁷完全な人(*³)の知恵の源は聖霊である.
*⁸人間の心の中にあるもの.この霊によって神は,この世(*⁸)や人間の知恵(*⁸)の知り得ないことを現した.
*⁹原文は「プシケ」の人とある.これは「プネウマ」(霊)の人と対立するもので, 自然の能力に従って生きる人のこと である.
*¹⁰神の霊に照らされた人.
*¹¹〈旧約〉イザヤの書40・13参照.